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芭蕉の弟子・図司呂丸についてのお話【後編】

 前回は図司呂丸(ずしろがん)の生涯についてを投稿しました。図司呂丸は羽黒山で染物屋を営み、『おくのほそ道』の旅で立ち寄った芭蕉に弟子入りし、若くしてその生涯を終え、惜しまれました。
 それでは、彼の生い立ちや正体はどうだったのでしょうか。前回よりも呂丸についてより探究していきたいと思います。

 この記事は、戸川安章『羽黒の俳人・圖司呂丸』,國語国文, 1952, 21(9), p24-36を参考にしています。

呂丸は山伏ではない

 羽黒山伏は、山伏そのものの宗教的役割以外に、商いも行っていました。しかしながら、羽黒で染物屋という商いをしていた彼は山伏ではありませんでした。彼の戒名には山伏特有の称号がないからです。

 山伏でない呂丸はどのように過ごしていたのでしょうか。彼の住んでいた羽黒山手向は当時住人のほとんどが山伏でした。山伏以外の人はいわゆる賤民(せんみん)や下男(げなん)のような、社会的立場が低かった人々であったため、呂丸は肩身の狭い思いをしていたのだろうと戸川氏は述べています。

そもそも羽黒出身ではない

 呂丸、もとい近藤佐吉には藤四郎(俳号は閑夕・かんゆう)という弟がいたことが曾良の『奥の細道随行日記』に記載されています。

鶴ケ岡、山本小兵へ殿、長山五郎右衛門縁者。図司藤四良、近藤左吉舎弟也。

『奥の細道随行日記』曾良

 弟の藤四郎は鶴岡に住んでいたことがわかります。呂丸は社会的身分が低かったわけでもなく山伏ではなかったこともあり、呂丸は何かわけがあって家督を弟に譲り、羽黒に移り住み商人になったのではないかとされています。
 また、藤四郎も佐吉のように「図司」と「近藤」の名字を両方とも使っていたため、戸川氏によるとどちらかの姓は母方の姓なのではないかという分析がなされています。

呂丸はお金持ち?

 呂丸は山伏ではありませんでしたが、別当代の会覚阿闍梨(えがくあじゃり)からの知遇(ちぐう)を受けていることもあり、社会的身分が低かったわけではありませんし、ましてや貧乏でもなかったようです。
 彼は芭蕉に弟子入りしても染物屋を続けていましたが、俳諧修行と称して江戸、伊勢、京都へと羽黒から旅をしたり、芭蕉の弟子の1人・各務支考(かがみしこう)や酒田の俳人・伊東不玉(いとうふぎょく)と共に象潟に遊ぶなどする蓄えはありました。

 また、戸川氏によると「染物屋」という商いも鍵のようです。

維新當時、普明坊と名乗つて羽黒山の重役をつとめた百瀬俊淸氏からその生前に聞いたところによると、羽黒には染屋を二軒しかゆるさないといふ制度があつて、新しく営業をはじめるにはその権利を買はなければならなかつたといふから、外来者の呂丸が染屋をいとなむには相當の金をだして権利を買つたものであらう

戸川安章『羽黒の俳人・圖司呂丸』,國語国文, 1952, 21(9), p25

 羽黒で染物屋を営む権利を買って、幾度も俳諧の趣味のために旅をしていたことから、呂丸は豊かな生活をしていたのだろうと推測できます。

子孫も短命だったかもしれない

 呂丸自身は山伏ではありませんでしたが、妻もいて、子孫は山伏だった人もいたようです。山伏の戒名から、山伏としての階級と、当時それに対応した年齢(または金銭の余裕)が推測できます。照らし合わせてみると、いずれも60歳に至る前に亡くなっているか、生活に余裕がなかったようです。

 現在呂丸の子孫は羽黒にはおりません。菩提寺だった正善院の過去帳にあるのは天明4年(1784年)が最後で、断絶しているとみられています。

「不易流行」と呂丸

 蕉風俳諧の理念の一つ、「不易流行」。俳諧には永遠に変わらない「不易」と、移り変わる「流行」がありますが、不易の中に流行を取り入れていくことで流行が永遠性を獲得したものを本質と捉え、不易と流行は同一であると考えるのが俳諧の根幹とする考え方と言われています。
 この芭蕉の俳論が最初に着眼されたのは『聞書七日草』にある、このときの芭蕉と呂丸の対話の中といわれています。

まとめ:333年の時を超えて

 芭蕉が羽黒山に来訪してから333年がたった現在。同時に呂丸が芭蕉に弟子入りしてからも333年が経ちました。呂丸は享年も、墓も、なぜ羽黒に移住したのかもはっきりしていませんが、彼は確かに芭蕉の弟子であり、数々の俳諧も残しています。
 羽黒では俳句大会が毎年開かれています。羽黒の俳諧を今日まで俳句として紡いできました。その根底に松尾芭蕉や図司呂丸がおります。
松尾芭蕉の弟子であった呂丸は、今の羽黒にどんな句を思い浮かべているのでしょうか、そこに思いを馳せるのもまた一興ですね。