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月山の「行者返し」についてのお話【羽黒山小話】

 皆さんは月山に登ったことはありますか?月山の9合目の仏生池から山頂までの間に「行者返し」(または行者戻し)という場所がありますが、なぜ「行者返し」と言われるのでしょうか。今回はその由来に迫ります。

出羽三山の開祖と役行者

 修験道は羽黒派修験道だけでなく、全国各地にあります。その多くは、修験道の開祖を「役行者」(えんのぎょうじゃ)としています。しかしながら、羽黒派修験道については開祖は、出羽三山の開祖である能徐(蜂子皇子)です。

 「役行者」(えんのぎょうじゃ)は、7世紀後半の飛鳥時代の山岳修行者で、役小角(えんのおづぬ)とも言います。全国各地の山を廻り、様々な修験道の開祖として崇められています。『続日本紀』によると、多くの山々を開き修験道を広めたため、当時の神道側から訴えられ、伊豆に遠流となってしまいます。

 能徐太子が昇天されたのは舒明天皇の十三年で、おん年、一百ニ十歳であった。(中略) 朱鳥二年に、役行者がきて柴燈護摩を修し、修験道をさかんにした。

『羽黒山二百話』第185話 役の行者と羽黒の開山のこと 戸川安章

 能除は舒明天皇13(641)年に昇天しました。役行者が出羽三山を訪れるのは朱鳥2(687)年とされていますので、能除が出羽三山を訪れて亡くなってから役行者が出羽三山を訪問しています。そのため、役行者は多くの修験道を開いていたとしても出羽三山はそれとは異なります。しかしながら、役行者は出羽三山でただの登山者になったわけではなく、役行者が出羽三山に来訪したことでより修験道が盛んになったようです。

役行者を押し戻す

 役行者は月山の頂上に登ろうとしました。しかし、頂上近くまで来たところで、役行者は白髪の老翁に化けた能除(または蜂子皇子に仕える除魔童子と金剛童子という説もある)によって押し戻されてしまいます。

行者を押しもどしていわれるには、「この山は尊いお山で、不浄の者が来るべきところではない。よろしく荒沢の常火をもちいて修行にいそしみ、七五三の注連をかけてでなおすように」といましめた。

『羽黒山二百話』第185話 役の行者と羽黒の開山のこと 戸川安章

 この後役行者は言われた通り引き返して荒沢へと向かうのですが、この引き返したところが「行者返し」(または行者戻し)と呼ばれるようになりました。役行者はその後荒沢に参籠して、月山に登りなおし、湯殿山にも訪れることができました。

 そこで、行者はそこからひきかえして荒沢に参籠し、法のごとく修行をつんでから改めて月山に登り、さらに湯殿山を拝することができた。この因縁によって、役行者のもどった場所を行者戻しというのである。

『羽黒山二百話』第185話 役の行者と羽黒の開山のこと 戸川安章

なぜ押し戻されたのか

月山頂上付近

 「行者返し」は約30メートルほどの急斜面で、月山の中でも登山の最大の難所と言われる場所です。しかしながら前述の通り、役行者は「行者返し」が急登であるから押し戻されたのではなく、役行者が「不浄のもの」と言われて押し戻されてしまったのです。

 まず、役行者はどのようなことをして出直せと言われたのかを振り返ってみましょう。
 「荒沢の常火」というのは荒澤寺の常火堂にともされた不滅の浄火のことを指します(現在の常火堂は1980年5月に再建されたものです)。この火は行人や松聖も大切にし、一般家庭でも誰かの逝去やお産で火が穢れたり、火種を絶やしてしまったりなどしたら新しい清らかな火種として受け取ります。この浄火を用いて修行することは、自分の身の穢れを落とすということです。
 注連(注1)は神聖な場に不浄なものの侵入を禁ずる印として張るもので、それを身に掛けるということは自らの体に不浄なものを入れないようにするということです。
 つまり上記のことから役行者は白髪の老翁に「身の穢れを落として清い身のまま月山に登れ」と言われているということです。出羽三山の修験道は修行として自らの現世の穢れを落として新しい清らかな自分に生まれ変わり、人智を超えた力で救民を行うことが目的です。「身の穢れを落として清い身のまま月山に登れ」ということは「修行が足りない、未熟だ」と言われているということになります。
 
 今回は「行者返し」を取り上げました。このような出羽三山の新たな一面を知った上で出羽三山に参拝することで、出羽三山が今までとはまた違ったように皆さんの目に映るのではないでしょうか。

脚注

(注1) 「七五三の注連」は、修験者が本来用いる結袈裟の流れを汲むもので、七筋・五筋・三筋の縄があり、首にかける。転じて「七五三」を「しめ」とも読み、羽黒山には「七五三掛桜」の木があり、月山の麓には「七五三掛地区」がある。