2022第1回羽黒山歴史探訪を開催しました①
2022年10月8日(土)に、講師に出羽三山歴史博物館学芸員の渡部幸さんをお招きし、第1回羽黒山歴史探訪を開催いたしました。
今回のテーマは「羽黒山と庄内藩の増川山境界をたずねる」。渡部幸さんによる案内のもと、羽黒山の五水八石のひとつである「船石」(ふないし)「金剛石」(こんごういし)といった、かつて庄内藩との境界を表していた史跡を訪ねます。さらに手向宿坊街を探索し、隠れた史跡を訪ね、昼食は羽黒山斎館にて精進料理をいただきます。当日は約10人でバスに乗っていでは文化記念館を出発しました。
第1回歴史探訪①
神路坂・中の坂
歴史探訪の最初は、大鳥居からの景色を見ながら、地図*¹ と照らし合わせながら神路坂(かみじざか)・中ノ坂(なかのさか)を確認しました。
神路坂から赤坂薬師堂まで、慶安元年(1648年)に松が植えられました。*² 当時羽黒山と庄内藩は境界争いをしていました。正保4年(1647年)、つまり前年に庄内藩初代当主・酒井忠勝が亡くなり、次の当主はどうするかなどで酒井家が多忙な時期を選んで松を植え、その場所を羽黒山の領土を主張したようです。
船石
次に羽黒高等学校内にある猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)へ訪問しました。猿田彦神社には、船石が奉納されています。渡部幸さんはこの船石についての逸話もお話してくださいました。*³
この「郷の浜」(ごうのはま)は今回使用した地図でいう「業濵」(ごうはま)と同じ場所で、現在この猿田彦神社がある羽黒高等学校の近辺を指します。そして、「八石」(はっせき)は、羽黒山の境界及び結界の石のことを指します。
金剛石
金剛石は、鶴岡市添川地域と羽黒山領の間にある石です。現在はあぜ道を通って奥へと小道を入ったところの途中にあり、石そのものも自然界に溶け込んでいるため、普通に歩いていてもなかなか見つけにくいかもしれません。
金剛石を見てそのままその小道を下っていくと、開けた場所に出ました。林が見えます。ここに、元は宥俊別当が植えたとされます(注1)。
ちなみに、宥俊別当が植林した元和6年は、酒井家が庄内入部前、最上家親(注2)が亡くなってからお家騒動、最上家が改易されるまでの間(注3)です。やはり相手が忙しい時期に境界を決めてしまおうという意図によるものでしょうか。
脚注と参考文献
脚注
注1 宥俊(ゆうしゅん):天宥の師匠であり、第49代羽黒山別当。羽黒山頂に開山堂を建立し、開祖の尊像を設置。
渡部幸さん曰く、現在目に見える林は宥俊が植えたものではない。宥俊別当は確かに松を元和6年(1620年)に植林*² こそしたけれども、明治時代に神社の領地が国のものとなったとき、その土地を国から買い戻すために、宥俊別当が植えた木を伐採して売り払わざるをえなかった。そのため、今現在私たちが見ている林はその後に植えられたもの。
注2 最上家親(もがみいえちか):出羽山形藩の第2代藩主であり、最上家第12代当主。36歳で急死した。
注3 『羽黒山中興覚書』によると、宥俊は元和6年(1620年)正月に別当職の継目の挨拶で登城し、江戸幕府第2代征夷大将軍である徳川秀忠にお目見えしている。元和3年(1617年)に最上家親が急死したことを受け、最上家に対して不安視をし手を打ったのだろうと考えられる。その後最上家を継いだ家親の嫡男と、家親の弟の間で内紛が起き、元和8年(1622年)に最上家改易となる。
参考文献
*¹ 『出羽国田川郡増川郷御料拾壱ヶ村私領拾四ヶ村と
同国羽黒山領麓町手向村野山境論裁許之事』,
出羽三山歴史博物館蔵, 1728
*² 『羽黒山中興覚書』,経堂院精海 著, 戸川安章 校註,1941
*³ 『羽黒山二百話』,戸川安章, 1972
記事トップ画像:猿田彦神社へ向かう皆さん