部活のこれからを話す前に

中澤篤史『そろそろ、部活のこれからを話しませんか――未来のための部活講義』(大月書店、2017年)の感想など。

〈本書の内容〉

・中澤篤史『運動部活動の戦後と現在――なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか』(青弓社、2014年)の内容を踏まえつつ、一般向けに書き直したもの。
・日本に特有な学校部活動の特徴を戦後民主主義教育の理念だった「自主性」に求め、その内容のあいまいさに加えて、「自主的な」活動が半ば強制されるという矛盾が、部活動自体の加熱化・肥大化、そして生徒と教員の生活破壊につながっていることを指摘している。
・学校部活動が生徒への暴力や事故、教員の過労などを引き起こしていることを具体的な事例やデータを示して解説している一方で、部活動の良い面を文化活動それ自体に触れることができる点に見出し、それを充実させるために必要な考え方を紹介している。

〈本書の問題点〉

・結局、なぜ学校で部活動ないし文化活動を行わなければならないのか、なぜ教育を学校に限定して考えなければならないのか、という点が不明確であり、十分な説明がないため、学校教育ないし近代教育の役割をややナイーブに捉えているような印象を受ける。
・学校部活動を考える際に、まず生徒の立場を、次に教員の立場を重視する、という序列を設けており、そのうえで部活動の役割を「楽しむ練習」に見出しており、本書自体も「自主性」という教育言説から距離を取りきれていないように感じられる。
・「自主的な」活動と言いながら部活動が半ば強制されている構造を明確に描ききれていないため、結局は、当事者に何らかの意味づけをされ、慣習として受け入れられているから部活動は存続してきた、という現状追認的な説明にとどまっている。

〈論点〉

・学校部活動の何かに教育的意義を感じるならば、なぜそれが学校でしか可能ではないのか、なかったのかをもっと詳しく論じるべきだろう。
・学校部活動を論じる上で忘れられがちなのは、企業の存在ではないか。企業スポーツは、企業がアスリートを雇用して行わせるものに限らず、一般の従業員に対して奨励して行わせるものも含んでいる。企業スポーツも学生スポーツとともに歴史は古い。学校部活動の歴史と企業スポーツの歴史はどのように絡み合うのか。近代学校教育が労働力の養成を担う制度であるとすれば、学校部活動に企業の要請はどのように反映されてきたのか。
・「自主的な」活動とされながら、実際には強制されているものは、たとえばQCサークル活動やレクリエーション活動など、これまでも企業社会研究において盛んに論じられてきた。企業が社会の中心にあり、企業の外の自律的な空間が極めて狭い日本では、教育にもスポーツのような文化活動にも、企業の論理が潜在し、その強制力が反映されているはずなのだ。学校部活動の「地域移行」がなかなか進まない背景には、その「地域」なるものに自律的な空間(地域社会)が存在しないことがあるのではないだろうか。

※今後、2014年刊行の前著を読んだ上で内容を追記したい。

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