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縁路はるばるを詠む

嗚呼、人は職場のオフィス(半径約3メートル)で愛!!!!!!と叫ばず

恋愛の免許があれば車さえ運転できる廃れた話

好きですと言わない人の好きですとオートマに乗るマニュアル免許

わたしからわたしらしさを差し引いたわたしが書類上でわたしを

鮮やかな街に海山川べりに愛した人に愛する人に

縁路はるばる5首/八木辰


 自宅から映画館に向かうのにドア・トゥ・ドアで2時間かかるのは長いのだろうか。埼玉のだいたい真ん中あたりから都心に出ると1時間半はくだらない。それは通えない距離ではない。実際のところ、僕は職場まで1時間半かけて出勤しているし、学生時代は大学へ2時間かけて通っていた。都内に住んでいた時期もそれなりにあるが、僕と都心との距離感は1時間半〜2時間がデフォルトである。よって、2時間以内で到達できる新宿はギリギリ映画を観に出かけていける場所じゃないだろうか。
 
 以上のような逡巡を経て、結局僕は武蔵野館の椅子に座っていた。はじめて来た。緑色でふかふかの椅子、素晴らしい。この椅子の存在を感じられただけでもはるばるやってきた甲斐があるというものだ。ちなみに鑑賞した映画のタイトルは「縁路はるばる」である。
 
 香港でグルメアプリ開発に従事する眼鏡の青年・ハウは、口下手でレゴブロックが好きで典型的なオタクルックの28歳。冴えない。されどモテ期なのだ。仕事は順調で昇給も決まり、都会に住んでいる。ちょっとしたチートの波に乗った彼はいわゆるハーレム系アニメのようにやたら女性との出会いに恵まれる(車のシートカバーが「藤原とうふ店」のロゴ入りだったり、開発したアプリの広告アニメで自転車に乗ったキャラクターが金田のバイクのブレーキシーンをオマージュしていたりという状況を鑑みれば、案外本当にハーレム系アニメを意識しているのかもしれない)。

 じゃあ話はとんとん拍子かというとそうもいかない。主人公に縁のある女性はなぜか皆、どえらい郊外に住んでいるのだ。それは車でなんとか送り迎えできる場所から、救助隊の看板が掲げられた山奥の村、フェリーのみが通じている荒廃した住宅地などさまざまだ。戸惑いつつも健気に車を運転して女性に会いに行く主人公。その想いは届いたり脱輪したりで、まさにラブコメの王道という雰囲気。位置情報アプリを模した映像演出とポップソングが挿入され、主人公自身が開発したAIはC‐3POの如く一言多い。

 同時に映し出される風景が都心とそれ以外とを雄弁に語る。つまり都会にはなんでもあって、田舎にはなんにもない。もちろん、この「なんにもない」とは経済的なことだ。僕の住んでいる埼玉の真ん中にもコンビニこそないがスーパーなどは隣町に行けばある。例えばこの「ある」すらも「ない」。画面上でその落差は、洗練された建築物が並ぶ都心部と自然の含有率があきらかに高い田舎との対比で一目瞭然なのだ。監督のアモス・ウィーいわく、香港は都心から遠くとも100キロ以内でどこにでも行けてしまう広さだから、家賃の安い僻地から都心部へ出社する人も実際に存在するという。都市化の落差が作為的ではなく、都心と郊外の距離感からしてごく当たり前に存在しているというリアリティが物語構造にほどよい深みを与えている。

 きっとこれは鑑賞する人を選ばない作品だ。親しみやすい作品作りがされているゆえ、ハウの不器用さや僻地から都会へ出ていく女性たちの苦労に「わかる、わかるな~」なんて心地よくうなずいたりして僕も見ていた。しかし広東語の中で「anyway」とごく自然に切り返す言語の事情や、民主化デモや移民について当然のように言及する若者たちの状況が、僕たちの普段想像していない重圧の存在をにおわせる。結婚適齢期の恋愛とは新しい家族を持つか、新しい住所登録をするか、新しい命の新しい人生にバトンをつなぐかという選択であることが、広くも狭くもある土地で右往左往する香港の若者たちによって切実に浮き彫りにされていく。重いことは軽いことのように生活にまとわりついているという当たり前のことがさらりと描かれている(って、それがつまり当たり前ということなんだけど)のだ。これ自体が一つの民主主義の達成なのではないだろうか。

 今回、職場の先輩にすすめられてはるばる新宿まで映画を観に行って本当によかった。縁とは距離の外にある隣り合わせのことだ。それは日々の選択で見出されたり見失われたりしていくのだろう。
 
 

 


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