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大きな樹の話11(後編)

白山信仰の生きる地、石徹白

寺社巡りなどをしたことがある方ならば、白山神社という名前を聞いたことがあるだろうか。もしくは自分の生活圏に同じ名前の神社があるという人もいるかもしれない。
白山の名を冠する神社は全国に3千を超えるという。
その御神体は文字通り白山という一つの山だ。
石川県と岐阜県に跨り、富士山・立山と並んで日本三霊山に数えられる。
周囲の山々よりも長い期間雪を被り聳える姿は、実に神々しく写ったことだろう。
白山より溶け出した雪は、手取川(石川県)・九頭竜川(福井県)・長良川(岐阜県)・庄川(富山県)となり、各地を豊かな水で満たし続けている。
暮らしの全てを支える文化の水をもたらす白山。

白山へと続く登山ルートは複数あるが、今回訪れたのは石徹白登山口と呼ばれる場所。
そこに至るまでに私が「境目」を意識した所がいくつかあった。
何度もフィルターを通るように進んでいく。
それ故、今までに感じたことがないほど濃い何かを意識したのかもしれない。

まず、この石徹白地区に入る少し手前、長瀧白山神社という神社がある。車を走らせていると立派な社叢が目に入るので、それだけでこの地と信仰に繋がりがあるのだと分かる。辺りの山も「そう」見えてくる。
長きに渡り、白山へと修行に向かう修験者たちの拠点となっていたようだ。里に住む人々の祈りを託された修験者はここから神の地へと進むことになる。

石徹白地区に入り、いよいよ山深くなったところに鎮座するは白山中居神社。その直前に道路を跨ぐような形で注連張と呼ばれる縄が掛かっていた。下界と神域を隔てる印だ。
神社の鳥居をくぐったら神域なのではない。
広大な神域の中に、大きな神社がひとつ存在しているということになる。
注連張から少し進むとようやく巨大な鳥居が目に入る。白山中居神社だ。
神の座す白山と人の住まう下界であるこの地点には、神が中居りするとされたことからその名がついた。

まず気付くのは、並び立つ樹々の大きさが尋常ではないこと。そのどれもが単独で御神木として祀られていても全くおかしくない。
話によるとここには樹齢が200〜1000年と推定されるスギが150本ほど生育しているという。
真っ直ぐの木→直ぐ木が語源とされるスギは文字通り天を衝くように伸び上がり、それだけでこちらの気持ちを引き締めさせる。


参道途中に宮川という清流がある。これに架かる宮川橋という橋を渡るのだが、古来より俗の世間と神の世界、この世とあの世の境目とされてきたそうだ。三途の川のようなイメージとはかけ離れているが、静かに揺蕩う水面には人それぞれに見えてくるものがあるかもしれない。

そうして踏み入れた本殿前の周囲、スギの存在感は一層増して、観光地化された神社とはまるで異なる雰囲気を漂わせる。ぐるりと見渡すとどこか孤独を感じた。私自身もまた、自分とそれ以外を何かで区切っていたのかもしれない。

本殿から少し離れたところから裏山へと登った先に浄安杉と呼ばれる、境内で最も大きなスギがある。凄まじい重量感を放つ幹は地上2m付近で大きく4分岐し、それぞれが捩れを伴いながら直上する。ここに来るまでに立派な樹々を相当な数目にしてきたのにも関わらず、理解が追いつかない。実に堂々たる姿だ。別格と言っても良いと思う。決して広い空間に生えているわけではないが、それでも浄安杉の周囲には実際の距離とは異なる、ある一定の空間が存在するように思えた。これは他の巨樹にも言える感覚だ。(全てではないが)後ろ髪を引かれる思いの中、白山中居神社を後にしてさらに石徹白の奥地へと進んでいく。

浄安杉


神社から車で30分ほど走らせ登山口の駐車場に到着する。さらに10分ほどの階段を登りきると、そこに一本のスギが立っている。
国の特別天然記念物に指定されている石徹白のスギだ。
単独で特別天然記念物に指定されているスギはこの石徹白のスギのみ。生きた国宝とも言われる大変に貴重な存在である。
まず意識が向くのはその異様な樹形。真っ直ぐがスギの語源であると先述したが、この樹にはあまり当てはまらないかもしれない。
円柱というよりも巨大な板のように幅のある幹からは、不動明王の火炎光背を思わせる枝が突き出している。いや、枝というより幹がその形に変形したような印象だ。

石徹白のスギ


葉も横と上部に少しあるだけで、あまり盛んに生長しているようには見えない。
しかし、その姿からあまり強い"死"や"負"のイメージは感じられない。むしろその環境における生命そのものを象徴する存在のように思える。

樹は小さな森だ。
例え森の中で、樹が枯れたり倒れたりしても森は死なない。その樹から去った生命は地へと還り、そこから新たな生命が育ってゆく。今まで多くの森を歩いてきたが、樹木の死は本当にすぐ次の命へと繋がっている。何度も目の当たりにしてきた。
石徹白のスギも同じだ。ブナやカエデがその上で随分と大きくなっている。針葉樹から広葉樹へとバトンが繋がるのは森そのものである。

この大きな大きな一本の樹が、白山への入り口と呼ばれる場所に立ち続ける意味は何か。

自然(ジネン)。自ずから然り。ただそこに在る様。
本来的にそうであること。

石徹白のスギも理由などなくそこに芽生えたはずだ。数百、千を超す年を数え、それでも尚、今ここ石徹白に生命として有り続ける。どうしてもそこに我々は意味を求めてしまう。
石段を登ってきた者を迎えるように、これが正面だと言わんばかりにそこに立つ。
白き神の住まう白山、そしてそこへ向かう人の前に立つは、同じく白く輝く樹皮を持つ石徹白のスギ。
その穢れなき山と巨樹の関係に、かつての人々は何を感じていたか。今となっては知る由も無いが、そこに迫るたび濃くなってゆく神の気を私は忘れることができない。
このような土地を訪れるたび、
「神社があるから神様がいる」という認識ではなく「神様がいる場所に神社がある」という捉え方が正しいのだと感じる。
こうした体験を積み重ねていきたい。
そうすれば、今も各地に続く信仰の根元を垣間見れるような気がしているから。




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