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あれから10年。 ーその2ー

(ヘッダー画像は2020年11月、山形県米沢市にて筆者撮影)

この記事の続きです。

翌日の3/12以降について。

朝起きて、長野でも大きな地震があったことを知りました。それからは原発事故があったりしましたね。11日に比べて、このあたりははっきりとした記憶が少ないです。

はっきり覚えていることを断片的に記していきます。

地震酔い

この言葉はニュースで知りましたが、家族全員がそうでした。揺れていないのに揺れている気がしていました。軽いめまいがするときもありましたし、気分が悪くなる時もありました。

給食について

3/14は学校に行きました。卒業式を3/18に控えていたので練習をした記憶があります。5年生は在校生として出席する予定でしたので。簡易的な給食が出ていました。給食センターは地震の影響で稼働しませんでしたが、市内にあった雪印メグミルクの工場と、パンを納入してくれていた工場は稼働していました。牛乳とジャム、コッペパン。しばらくこのメニューが続きました。

幻の「計画停電」

帰宅してから、原発事故の影響で電力が足りない、「計画停電がある」ということをニュースで知りました。東京電力管内では地域を時間で分けて一定時間停電が行われる、だから早くご飯を作ってしまおうということになった記憶があります。

翌日、計画停電の時間になっても停電しませんでした。「東京23区ですら停電しているのになぜだろう」と思っていました。

だいぶあとになって理由を知りました。野田市には新野田変電所というギネスブックに載っているところがあります。首都圏送電網の拠点となっていて、東京に電気を送り込んでいるようです。したがって、野田を停電させると変電所も止まってしまう→それは避けたい というような感じ (推測) で1度も計画停電はありませんでした。

ちなみに、隣の市から送電線が来ている一部地域は停電したようです。

卒業式挙行

3/18、本震から1週間。予定通り、小学校の体育館で卒業式が行われました。式の途中にも地震が1回あったと記憶しています。

これがこの体育館で行える最後の行事になるとは…当時は思ってもいませんでした。

次の週から3/25の修了式にかけて、給食がありましたが何かが減って、さけるチーズが代わりに導入されていました…毎日コッペパンと牛乳は固定だった気がします。

4月以降

年度が変わり、最終学年になりました。地震から1ヶ月ほど経ち知ったことは、「体育館が使えない」ということ。かなりショックでした。耐震検査の結果が基準を満たさないために建て替えとなりました。2012年の5月、中学1年となった私たちに遊ぶ機会を設けてくれましたが、それまでの1年間は立ち入り禁止エリアになっていました。

卒業式などの催し物は近くのホールを借りていました。最終学年に体育館が使えないことが思った以上に影響をもたらしていました。雨の日は遊べないし体育もできませんでした…

原発事故の影響

両親ともに過剰に反応していたわけではないので、当時からあまり放射能に対する恐怖心はなかったのですが、小学校の校庭がホットスポットでした。その影響か、運動会の組体操は裸足ではなく、上履きを履いて移動していました。このあたりが、例年とは違ったところですね。


次は昨年12月に被災地を訪れたことについて書きますね。

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