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黒沢義明別伝 -麻雀職人と呼ばれた男- 「人生の牌譜」

     一

 吉祥寺駅の南改札を出ると、黒沢義明は上着を脱いだ。
 桜はもう終わり、日中はだいぶ気温が高くなってきている。
「今日はちょっと暑いくらいですねえ」
 谷口たかしが言った。隆はボーダーのTシャツの上に、薄手のジャケットを羽織っている。
「ああ」
 黒沢は上着を脇に抱え、再び歩き出した。斜め後ろを、隆が続く。
(この街に来るのは久しぶりだな……)
 麻雀も酒も、新宿の方が好みに合っている。ただ、かつてこの街には黒沢と牌で語れる男がいた。
 坂本龍司。サラリーマンにしておくのがもったいないほどに、麻雀の腕は確かだった。だが、麻雀との付き合い方は、人それぞれだ。龍司は、普通の幸せを望んでいた。
 その龍司が交通事故で他界して、一年になる。まだ三十歳くらいだったはずだ。
 三分と歩かずに、雀荘『シムーン』の入っているビルに着いた。店名は、中近東の砂漠に吹く砂混じりの熱風に由来する。以前は、隆も交えて龍司とここでよく打ち合ったものだ。
 エレベーターを降りると、牌を混ぜる全自動卓の音が聞こえてきた。ドアを開け、二人は店内に入った。
「あ、黒沢さんに谷口さん。久しぶりだね、いらっしゃい」
「久しぶり、マスター。元気にしてたかい?」
 店内を見回すと、二卓立っていた。三十歳前後の女がひとりいる。春らしい淡いピンクのカットソーの肩に、セミロングの黒髪がかかっている。
 黒沢は、その女に見憶えがあった。
「マスター、あの女の人って……」
 口に手を添え、小声で黒沢はいた。
「ああ、晴美ちゃん。龍司君の婚約者だった子だよ。最近、来るようになってさ」
 マスターの言葉で、名前も思い出した。細野晴美。一度、隆を交えて四人で飲みに行ったことがある。最後に会ったのは、龍司の葬儀だった。
「あの上家かみちゃにいる男が、新しい彼氏ってわけかい?」
 ささやくように、隆がマスターに訊いた。
「おい、隆。言葉に気をつけろ」
 龍司が亡くなってまだ一年だぞ、という言葉を呑みこみ、黒沢は隆をにらんだ。隆が、申し訳なさそうにうつむいた。
 黒沢は卓の方へ目をやり、もう一年とも言えるか、と思った。 
 晴美の上家には、ストライプのシャツを着た男が座っている。二十代半ばくらいだろう。丸顔の、大人しそうな男だった。
「高橋さんね。晴美ちゃんの会社の、後輩らしいよ。まあ来てくれるのはありがたいんだけどさ、晴美ちゃんはいつも負けるから見ててつらいし、高橋さんもちょっと……」
 マスターの言いたいことは、黒沢にもわかった。晴美は手つきも打牌選択も、初心者丸出しだ。上家の高橋という男はまあまあ打てそうではあるが、前局は晴美からアガりたくなかったのか、当たり牌が出ても見逃し、他家たーちゃにアガられていた。
「なんだか、卓全体がゆがんじまってるな。マスター、次のゲーム、あの二人と打てるかい?」
「ああ、構わんよ」
 晴美の摸打もうだから目をそらし、黒沢はショートホープに火をつけた。

     二

 新たに卓を立て、黒沢と隆、晴美と高橋が入ることになった。晴美と高橋が抜けた卓には、待っていた客とメンバーが入っている。
「黒沢さんに谷口さん、ですよね? お久しぶりです」
「久しぶりだね。龍司が亡くなって、一年か……。まさか晴美ちゃんが麻雀をやっているとはね」
「龍司が夢中になっていた麻雀を、わたしもやってみたくなったんです。ひとりじゃ心細かったのですが、会社の後輩の高橋君が付き合ってくれて」
「高橋幸雄です。黒沢さんの話は、龍司さんから聞いたことがあります。『麻雀職人』の二つ名を持つ、凄腕の打ち手だと……」
「……だったら、変な遠慮はするなよ。自分が勝つことを考えるんだ」
 黒沢が言うと、高橋は目を見開いたのち、下をむいた。
 ――対局が開始された。
 手心を加えるつもりはなかった。四戦して黒沢が三勝と二着一回、隆が一勝と二着が三回。高橋と晴美で三着とラスを分け合うかたちとなった。
「完敗です。格の違いをまざまざと見せつけられました……」
 少し疲れたような顔で、高橋が言った。基礎はできているが、人情相撲のような真似をしていたからか、芯がぶれているように感じた。
「いったい、なにがここまで違うのでしょうか」
 晴美が訊いてきた。短くなった煙草を灰皿に落とし、黒沢は答えた。
「技術はもちろんのこと、まず意識が違う。俺や隆は麻雀で飯を食っているプロだからな。龍司は会社員だったが、プロ意識は持っていたよ」
「プロ意識、ですか……」
「ま、そのへんのことは、飲みながら話そうじゃないか。積もる話もあるだろうしな」
 時計を見ると、十七時半だった。
 どこかしら、居酒屋は開いているだろう。黒沢たちは、連れ立って『シムーン』を後にした。
 ――近くの居酒屋へ入ると、ビールとつまみを頼み、乾杯した。
 話題はほとんど、龍司のことだった。
 晴美は時おり少し寂しそうな顔を見せたが、それでも龍司について語る時は、活き活きとしていた。
 高橋が手洗いに行くタイミングに合わせ、黒沢も席を立った。
「晴美ちゃんのこと、どう思ってるんだ」
 洗面台の前で、黒沢は訊いた。
「……どうって、尊敬する上司ですけど」
「正直に言えよ。好きなんだろ。別に、とがめるつもりはない」
 単刀直入に訊くと、高橋の顔に狼狽ろうばいの色が浮かんだ。
「……はい。入社して間もない頃、細野さんは仕事でミスした僕をかばってくれて、いろんなアドバイスもしてくれました。気づいたら、僕の中でそういった気持ちが芽生えていて……。でも婚約者――龍司さんの存在を知って、僕は二人を応援する気になったんです。実際に龍司さんに会ってみると、麻雀も強いし、頼れる兄貴って感じで、尊敬できる人でした。細野さんへの憧れは消えることはありませんが、それでも僕は、二人の幸せを心から願ってました」
 絞り出すような声で、高橋が言った。きっと、語ったことのすべてが、本心なのだろう。誠実な男だ、と黒沢は感じた。
「そうか……。君もいろんな想いを抱えていたんだな」
「龍司さんが亡くなって、細野さんは精神的に不安定になり、仕事でもミスが目立つようになりました。僕は思ったんです。今度は、僕が細野さんを支える番だって。仕事もこれまで以上に頑張り、僕自身も上司である細野さんも、社内での評価が上がりました。細野さんが麻雀覚えたいって言った時も、すごく嬉しくて……。僕にできることはなんでもしてあげようって、思ったんです」
「君が晴美ちゃんを大切に思っているのは、わかったよ。だからといって、晴美ちゃんから出た当たり牌を見逃すような真似は、感心しないな。ほかのお客さんや、店にも迷惑だろ。楽しんで打つのはいい。ただ、麻雀の厳しさも教えるべきだ。じゃないと、龍司も浮かばれないぜ」
 黒沢が言うと、高橋はうつむいて唇を噛んだ。
「僕は、どうしたらいいんでしょうか」
「まずは、彼女の気持ちに寄り添ってやることだな。晴美ちゃんはいま、どうしたいのかな」
「やっぱり、麻雀でしょうか。少しでも上達して龍司さんに近づきたい、そう思ってるようです」
「そこまで思っているとはな……。まあ、麻雀のことなら、俺や隆も力になれる。協力は惜しまないぜ」
 黒沢が言うと、高橋に笑顔が戻った。
 席に戻り、四人で杯を重ねつつ話は続いた。
「あ、そういえば――」
 思い出したように、高橋が言った。
「――あの、ネット麻雀で、よく龍司さんと一緒に打ってたんです。牌譜が残っているので、それをもとに龍司さんの打ち筋を学べるかもしれません」
「ネット麻雀? そんなんで学べるもんかなあ」
 腕組みをして、隆が言った。
「ふっ。隆、おまえも俺の後ろでノートを取ったりしてなかったか」
「いや、それとこれとは……」
「いいじゃないか。俺やおまえはすでに龍司の打ち筋が頭に入っちゃいるが、晴美ちゃんや高橋君は、そうはいかないんだ。たとえネット麻雀でも、龍司の牌譜が残っている。それを見て学ぶことに、俺は賛成だぜ」
 黒沢が言うと、晴美の表情が明るくなった。それを見て、高橋も少し安心したようだった。
 隆はまだなにか言いたそうだったが、黒沢は隆を目で制した。
(おまえの言いたいことはわかる。だが、いまはそれでいいじゃないか。人生は、麻雀の道は、長いんだぜ……)
 うなずいて、隆はタブレットを手に、皆に追加の注文を訊き始めた。
 黒沢は、バーボンのロックを頼んだ。

     三

 携帯電話の着信音で、目が覚めた。
 ディスプレイを見ると、九時前だった。
 もう一時間だけ寝たかった、と思ったのは一瞬だけで、胸騒ぎとともに、黒沢は電話に出た。
 着信は、『シムーン』からだった。
「もしもし」
「朝早くにすまないね、黒沢さん。実は――」
「――わかった。すぐにむかう」
 マスターからの電話を切ると、隆に電話した。隆も寝ていたが、すぐに支度して出てくるという。
 隆との通話を終えると、黒沢は急いで着替えカプセルホテルを出た。
 休日の新宿は、ふだん以上に人通りが多い。もどかしさを感じながら、行き交う人々の間を縫うように進んだ。
 新宿駅から中央線快速の高尾行きに乗ると、黒沢は途中で買ったパンを缶コーヒーで流しこみながら、マスターの話を整理した。
 昨夜二時に晴美と高橋がやってきたが、晴美の様子が普通ではなかったという。まるで取り憑かれているかのように打ち続け、さらに驚くべきことには、一度も連対をはずしていないそうだ。
 二時からなら、すでに十数回は打っているだろう。それだけの数をこなし一度も三着以下に落ちない、というのは、黒沢でもそうあることではない。
 わずかひと月の間に、晴美になにがあったのか。多少上達したとしても、その成績は尋常ではない。
 十二、三分ほどで、吉祥寺に着いた。足早に改札を出て、『シムーン』へ急いだ。
 煙草が喫いたかった。歩きながら、黒沢は起きてからまだ一本も煙草を喫っていないことに気づいた。
 エレベーターを降り、『シムーン』のドアを開けた。カウンターに立つマスターと目が合う。
「急がせてしまったようで、申し訳ないね」
「状況は?」
「電話のあとに二連勝。いまオーラスで、ひとりラス半が入ってる。いまの晴美ちゃんは、異常だよ。まるで、龍司君が乗り移ってるようだ」
 黒沢は卓に目をやった。手前に中年の客がいる。その下家しもちゃに晴美、高橋、メンバーという並びだ。
 晴美の顔には生気がなく、目の下にはくまが張りついている。髪は乱れ、メイクも崩れていたが、所作はきびきびとしたものだった。
 現在、晴美は三着目で、トップは高橋だった。ついに晴美は連をはずすのか、それとも逆転するのか。黒沢は対局の行方をじっと見守った。
 親番で二着目の中年客に、手が入っていた。しかし、テンパイした際に切った牌が晴美に放銃となった。跳満の一二〇〇〇点で、晴美と高橋は同得点となったが、トップは上家かみちゃの晴美だった。これで、晴美は三連勝したことになる。
 跳満を放銃しラスに落ちた中年客が、席を立った。
「行くかい?」
 マスターが訊いてきた。
「ああ。そのために来たんだからな」
 卓に着くと、黒沢は三人に挨拶した。
「あ、おはようございます、黒沢さん」
 目が合っているはずなのに、晴美はどこか遠くを見ているような気がする。やはり、正気ではないようだ。
 黒沢は、高橋に声をかけた。
「なぜこんな状態で続けてるんだ」
「何度も、終わりにしようとは言ったのですが、まだ打ち足りらしくて……」
「なあ、晴美ちゃん。徹夜で疲れただろう。そろそろ終わりにして、めしでも行かないか」
「わたし、まったく疲れてないんです。それに、やっと麻雀が楽しいと思えてきたし」
「よし。じゃあ晴美ちゃんが連をはずし、三着以下に落ちたら終わりにしよう。俺も、本気で勝ちにいく」
「わかりました。本気の黒沢さんと打てるんですね、楽しみです」
 晴美がほほえんだ。しかし、その目は笑っていない。黒沢は背すじに冷たいものを感じた。
 龍司が乗り移っているというマスターの言葉は非科学的だが、それならそれで、全力で打つのみだ。そもそも、麻雀も人間も、科学や理屈で割り切れるものではない。ただ、晴美の状態は心配だった。
 高橋の起家ちーちゃで、対局が始まった。
 東一局は黒沢が一〇〇〇・二〇〇〇をツモ、東二局は高橋が晴美から二六〇〇を出アガった。いちおうリードはしているが、まだ瀬踏みの段階だ。
 東三局、ドラは六萬。親の黒沢に手が入った。

 ①①二三四赤五七八九6778 ツモ六

 五巡目にドラの六萬を引きテンパイ、黒沢は七索を切りリーチを打った。一四七萬待ちのメンピン赤ドラ。一萬なら一通が付き、出アガリでも跳満となる。
 五巡目の親の三面待ちリーチ。ここで突き放すつもりだったが、同巡に晴美が追っかけリーチを打ってきた。二軒リーチを受け、高橋もメンバーも、字牌を切った。
 黒沢の一発目のツモは、ドラの六萬だった。奥歯を噛みしめながら、黒沢は六萬を切った。
「ロン」
 発声とともに、晴美が手牌を開いた。晴美の手も、マンズの一通だった。

 一二三四五七八九99②③④

 裏ドラは九索。リーチ一発ピンフ一通ドラ裏々、倍満一六〇〇〇点の手痛い放銃となった。
 ダマにしておけば、六萬と九萬を入れ替えピンフ赤ドラドラのテンパイを維持できた。それ以前に、晴美の現物である一萬が、高橋かメンバーから出たかもしれない。晴美の河には、四巡目に一萬が切られている。一萬を残しておけば完全イーシャンテンとなり、テンパイする枚数は増えるが、引く牌によってはリーチのみの一三〇〇点になってしまう。ドラの受け入れと一通を見て、晴美はイーシャンテンの段階でピンフを確定させたのだろう。
(晴美ちゃんをどうこうする前に、俺自身がもっとしっかり打たないとな……)
 その後黒沢は巻き返したが、晴美との点差は大きく、二着で終わった。
 次の半荘はんちゃんは、黒沢がトップで終了した。晴美もしぶとく食らいついての二着だった。
(強いな……。所作も見違えたし、打牌選択に悩むこともない。このひと月で相当打ちこんだようだが、それだけではないなにかがある)
 三戦目。前回のラス前に到着した隆が、メンバーに替わって入った。待っている間に、マスターからこれまでのいきさつは聞いているはずだ。
 卓に着くと、隆が目で合図してきた。
〈組みますか?〉
 黒沢はかすかに首を振った。
〈相手がコンビならまだしも、ゴロでもない女ひとりを相手にそんな真似ができるか。それに、組んで勝ったところで意味はない。むしろ、俺に勝つつもりで来い〉
 頷いた隆の目に、闘志がみなぎってきた。
(そうだ。それでいい)
 三戦目は、黒沢の起家で始まった。
 高橋の疲労が限界に近い。黒沢はこの半荘で決めようと思った。
 晴美はすでに、限界を超えている。瞳の奥にはいまだ闘志の炎が揺らめいているが、いつ消えてもおかしくない状態だった。目の下の青黒いくまは、ひと晩だけのものではない。おそらく、このひと月は寝る間も惜しんで麻雀に没頭していたのだろう。疲労の限界を超え脳内麻薬が分泌されたことで、感覚が麻痺しているのか。一種のトランス状態。そんな気がした。
 限界をさらに超えれば、精神も肉体もこわれかねない。何日も集中を保ったまま麻雀を打ち続けた末に卓上で死んだ人間を、黒沢は見たことがある。
 東一局は隆がアガり、黒沢の親はあっさり落とされた。その後は小場で進んだが、抜け出てきたのはやはり晴美だった。
 オーラスを迎え、黒沢は一九二〇〇点の三着目だった。二着目は二八六〇〇点の隆で、晴美が三九八〇〇点のトップ目である。
 親の隆はトップを取るだけなら難しくはないが、晴美を三着に落とすのは難しそうだ。そもそも、当てにしてはいない。麻雀は全員との勝負であると同時に、自分自身との闘いでもある。黒沢が晴美から跳満を直撃すれば逆転トップ、晴美は三着になる。 
 配牌でトイツが三つあった。ひとつは赤含みだ。ドラの東が一枚ある。ドラを重ねてのチートイツかトイトイの直撃。あるいは、四暗刻。
 ――十二巡目、晴美に鳴かせないよう中張牌ちゅうちゃんぱいを絞りつつ、黒沢はチートイツをテンパイした。

 33赤55赤⑤⑤⑥⑥四四東九九

 チートイ赤々ドラドラ。跳満の逆転手だが、生牌しょんぱいのドラの東が出るかどうか。副露ふーろしている者はなく、場の雰囲気は重い。
 十三巡目、親の隆が東を切ってきた。テンパイの気配。河から察するに、マンズのチンイツだ。倍満まであるかもしれない。
 当然、黒沢は東を見逃した。山に手を伸ばす。八萬。ツモ切った。ロンの声はかからなかった。
 晴美のツモ番。
 手牌から、東を切ってきた。息を軽く吐き、黒沢は手牌を開けた。
「ロン。一二〇〇〇の二枚」
「あっ」
 黒沢の手牌と隆の河を交互に見て、晴美が続けた。
「……そっか、ネト麻と違ってラグはないもんね」
 晴美の顔に赤みが差している。憑き物が落ちたようにおだやかな表情になり、生気も戻ってきていた。
 黒沢は、隆と高橋と目を合わせ、頷き合った。

     四

 精算が終了すると、晴美は洗面所にむかった。顔に疲労が滲んではいるが、すっかり正気を取り戻したようだ。
「ありがとうございました、黒沢さん」
 安堵の表情で、高橋が言った。
 牌の混ざる音。いつの間にか、もう一卓立っていた。高橋の言葉に頷き、黒沢はショートホープに火をつけた。
「それにしても、晴美さんの打ち筋はすごかったですね。まさか、ほんとうに龍司さんが乗り移ってたんじゃ……」
「そんなわけないだろう、隆。まあ、一種のトランス状態だったとは思うが。それに、もし龍司が乗り移ってたのなら、あんな山越しに気づかないわけがない」
「確かに。龍司さんの観察眼、半端なかったもんな」
「じゃあ、俺たちはぼちぼち行くぜ。隆、めしでも行くか」
「はい」
「えっ。このあと、僕はどうしたら……」
「それは自分で考えるんだな。俺たちは麻雀に関しちゃ自信があるが、女心にはとんと疎くてね。ここから先は、君の役目だ」
「えっ、ちょっと、黒沢さん……!」
 黒沢はマスターに挨拶すると、隆とともに『シムーン』を出た。
 
     * * *

 洗面所から、晴美が戻ってきた。
 髪もメイクも直したようだ。徹夜の疲れは見えるが、正気に戻った晴美を見て、高橋は胸を撫でおろした。
「あれ? 黒沢さんたちは?」
「あ、帰りました。二人で食事に行くとかで……」
「そっか……。もっと、黒沢さんたちとお話ししたかったな……」
「あの、晴美さん、じゃなくて、細野さん。僕と、食事でも行きませんか。あ、すいません、黒沢さんたちが名前で呼んでるもので、つい……」
 晴美はしばらく下をむいていたが、顔を上げて言った。
「そうね。お腹、空いたもんね。行こっか」
「はい」
 マスターに挨拶して、高橋と晴美は店を出てエレベーターに乗りこんだ。
 ボタンを押しドアが閉まると、晴美が口を開いた。
「ありがとうね、高橋君。たくさん、迷惑かけちゃったね」
「迷惑だなんて、そんな……。今日は食事をしたら、帰ってゆっくり休んでください。あとこれからは、麻雀も無理せずほどほどに楽しみましょう」
「……そうだね。ほんと、ごめんね」
「謝らないでください。僕は細野さんが元気でいてくれれば、それでいいんです」
「……ありがとう。ねえ、さっきわたしのこと名前で呼んだでしょ。会社の外では、それでいいわよ」
「えっ。それってどういう……」
「プライベートでは、余計な気を使わなくていいってこと。ほら、ドア開いたわよ」
 晴美に背中を押され、高橋はエレベーターから降りた。
 ビルの外に出ると、高橋は思わず目を細めた。徹夜明けの目に、真昼の陽射しは刺激が強かった。
 ふりむくと、晴美も眩しそうにしていた。
「あの、は、晴美さん。ごはん、なに食べますか?」
「んー、お蕎麦がいいな。冷たいお蕎麦」
 言って、晴美がほほえんだ。
 高橋の目は、もう陽射しに慣れていた。
 もっと輝いた存在が、目の前にいる。

     * * *

 黒沢は、隆と並んで歩いていた。
「あの二人、うまくいきますかね」
 空を見上げながら、隆が言った。
「なるようになるさ。人生も麻雀と一緒で、ひとりじゃ牌譜を作れないからな」
「人生の牌譜か……。うまいこと言いますね」
 龍司も見守ってるさ。思っただけで、言葉にはしなかった。
 ふっと、爽やかでやさしい風が黒沢の脇を通り抜けた。
 隆以外の気配を感じてふり返ったが、誰もいなかった。
「どうしました?」
「……いや、なんでもない。そうだ、よっちんも誘ってみるか。めし食ったら、『風天』で打とう」
「いいっすね。電話してみますよ」
「ああ、頼む。夜は『雅』で飲もう」
 隆はすでに、携帯を耳に当てている。
 黒沢は空を見上げた。
 ビルの谷間から見える空は、青く澄み渡っている。空を見ているうちに、自然と心もほぐれていった。
(もう、夏も近いな)
 よっちんと通話する隆の声を聞きながら、黒沢は野球帽のつばに手をやった。


     (了)


     あとがき

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
 本作『黒沢義明別伝 -麻雀職人と呼ばれた男-』は、『天牌外伝』の二次創作小説です。
 以前書いた『天牌別伝』は、『天牌』の新満決戦の後日談として、自分なりに締めくくったものです。原作者である来賀友志先生の逝去で作品は休載、未完の状態となり、僕の心はずっと索漠とした思いにとらわれたままでした。そんな気持ちに一つの区切りをつけるために、『天牌別伝』を書いたのです。
 今回、『天牌外伝』の二次創作小説を書こうと思ったきっかけは、雀荘で何度か同卓したことがある男性客に「『天牌別伝』の続き、書かないんですか?」と訊かれたからです。それが、彼との最初の会話でした。
 その時は「あれはあれでもう完結ですからねえ」とは言ったものの、それまではただ顔見知りの客だった人(麻雀はとても上手い)が僕の小説を読んでくれていたことが嬉しく、そしてまた来賀先生の命日が近づくにつれ、自分の中で再び『天牌』への思いが大きくなってきたこともあり、本作の執筆を決意しました。
 今回の話「人生の牌譜」は、元々僕のオリジナル作である『黒崎アンナは魅せて打つ!』のために考えていたプロットなのですが、実は黒崎アンナというキャラクターのモデルは黒沢さんなんです。苗字の「黒」の一字は、黒沢さんから勝手に借りました。黒崎アンナの一連の物語は、女版『天牌外伝』をイメージして書いたヒューマンドラマなのです。
 そんなわけで、女版黒沢義明・黒崎アンナから本家黒沢さんに主人公を置き換えて本作を書き始めたのですが、まったく違和感がないどころか、元々考えていたものよりもコクが出たような気がします。もちろん来賀先生の領域にはとても及びませんが、黒沢さんや隆のようにキャラが立っていると、イメージも膨らみやすく、キャラが勝手に動いてもくれるので、自分で書いているのに「こんな展開になるのか~」とか「黒沢さん、どうする?」などと思ったりもして、楽しみながら書くことができました。
 闘牌シーンよりも、ドラマ性を重視しました。あなたの心の中に、爽やかな風が吹いてくれれば幸いです。
 ちょっとした遊び心でネタを入れたこともあり、本家とは若干テイストが違うかもしれませんが、僕の『天牌』シリーズへの思いは、たくさん詰めこんだつもりです。あくまで一ファンの妄想、二次創作ということで、ご容赦いただければと思います。
 今回おこがましくも、来賀先生の命日である五月八日に投稿させていただきました。改めて、来賀先生のご冥福をお祈りいたします。
 そして僕自身は、麻雀職人、小説職人を目指して、より一層、牌に文章に魂をこめていく所存です。



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