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天牌別伝 四

     

     四

 顔のまわりを、蠅が飛び回っている。
 後藤正也は腕を振った。蠅は離れていったが、すぐにまた近くに寄ってきた。
 足の踏み場もないほど散らかった部屋で、正也はゴミに埋もれるように座りこんでいた。
 新興ヤクザのもとで、正也は経営学の知識と麻雀の腕を活かし、組織の拡大に貢献した。しかし、覚醒剤への依存が強くなり、正気を失うことが多くなると、用済みとして放り出された。
 体の中を、蟲が這い回りだした。
 幻覚だ。頭の片隅では、そう思う。だが苦痛とともに、覚醒剤への欲求はさらに強くなった。
 正也は注射器を探した。かたわらに落ちていたが、針が曲がっていて、使いものにならない。
 ゴミを掻き分け、予備を探したが、見つからない。
 一枚の写真が落ちている。正也は写真を拾いあげた。
 写真の中央で、自分と伊藤芳一が肩を組んでいた。その両脇に、黒沢義明と谷口隆がいる。撮影したのは、沖本瞬だ。正也の手はふるえ、写真に涙の粒がこぼれ落ちた。

(あの頃はよかったよなあ……。伊藤、俺はここまで堕ちちまったよ……)

 蟲が、腕の皮膚の下を這い回っている。正也は腕に爪を立てた。

(俺は、ずっとおまえに嫉妬していた……。いつも眩しくて、人気者で……。ほんとうは俺も、おまえのようになりたかったんだ……)

 腕から血が滲んでいたが、構わず爪を立て続けた。蟲が全身に移動した。正也は叫びながら、全身を掻きむしった。周囲を飛び回っていた蠅は、どこかへ飛んでいった。

「俺だって、やり直したいんだ……。ちくしょう! ちくしょう……」

 蟲が下半身に移動した。正也は太腿ふとももを叩いたが、効果はなかった。

(助けてください、黒沢さん……)

 正也は台所まで這って進み、包丁を取り出した。

(もう一度、俺に教えてください……。麻雀を……。人生を……)

 雄叫びをあげ、正也は太腿に包丁を突き立てた。

     * * *

 ぼんやりと、外を眺めていた。
 柏木裕也は、松本樹一と二人で、外堀通り沿いの喫茶店にいた。松本も、柏木と同じように外を見ているが、目に映るものとは別のものを見ている、そんな気がした。

「ありがとうございます、松本さん」
「……どうした、急に」
「ここまで、連れてきてくれて。俺に、広い世界を見せてくれて」
「礼なら、麻雀の才能を与えてくれた親父さんに言うんだな。まったく、仕草まで黒沢さんに似ていやがる」

 ――昨年の対局のあと、柏木は母に確認を取った。
 これまで父のことをまったく話さなかった母が、訥々とつとつと語ってくれた。松本たちの推察通り、自分の父は『麻雀職人』と呼ばれた、黒沢義明という男だった。
 父は、母のことを本気で愛していたようだ。麻雀を捨てようと苦悩したが、母もまた父を本気で愛していたからこそ、ひとりで自分を産むことを選び、同棲していた部屋を出た。父について語る母の表情は穏やかで、柏木はそんな母を見ることができただけで満足だった。
 松本からも、父についての話をたくさん聞いた。父とは、何度も夜を徹して打ち合った仲だという。

「……それでも、松本さんには感謝してますよ。『RYO』はとても楽しいし」
「ああ、そうだ。帰りは遼と智美に、なにか土産でも買ってやるか。でもあいつら、もともと東京だしなあ……」
「土産話なら、これからたくさん作れるじゃないですか。今日は、松本さんも参加するわけだし」
「いいこと言うじゃねえか。そろそろ行くか、KJ。いや、もうこの呼び方はやめるべきかな」
「俺は気に入ってますよ、その呼び方」
「そうか?」
「黒沢義明の息子である前に、俺はひとりの麻雀打ちです。でも、俺をKJと呼ぶ人たちからは、黒沢義明への、父への親しみが、感じられますから」
「フッ。そうだな」

 言って、伝票を手に松本が立ちあがった。柏木も腰を上げた。これから一年ぶりにむかう『天狗』は、父・黒沢が最後に打った雀荘でもある。

「でもやっぱ、菓子くらいは買って帰ろうぜ」

 ふり返って、松本が言った。

「そうですね」

 ほほえんで、柏木は答えた。
 外に出た。よく晴れている。時折吹く風は少し冷たいが、それも心地よかった。
 緊張も、興奮もなかった。心は、今日の空のように澄み渡っている。
 しばらく、二人で並んで歩いた。

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