ふと考えたコンプレックスの話

私の誕生日は3月9日で、つい最近二十歳になったんですよ。だいたい十年前は素直に喜べたのですがこの季節になるとどうしても暗い気持ちになってしまいます。

3月11日の話

2011年の当時、私は小学5生でパソコンの授業をしていた中強い揺れに襲われました。
その後、教室まで移動し体育館に待機して親の迎えを待っていました。
その時不安で泣き出す子もいて、その姿が今でも印象に残っています。

当時から私は新潟県に住んでいたということもあり震災後はかなり早い段階で今まで通りの暮らしに戻る事ができました。幸運なことに親戚にもたいした被害はなく変わった事と言ったら節電を心掛ける生活になったぐらいでした。(といっても私を含めた周りの人達はかなり不安な日々を過ごしたのは事実です)

そして月日は流れて昨年の3月11日、昔から交流のあった親戚のお兄さん夫妻に待望の第1子が誕生しました。
その年はめでたい事だと喜んだのですが私は毎年誕生日を迎える度に抱えていた心のとっかかりがこの子にもできてしまうのではないのかと不安になってしまいました。

誕生日はコンプレックスになりうるのか

例年ひな祭りが終わってから二~三日すると朝のワイドショーでは当時を振り替える特集が組まれ、約一週間は世間も粛々としたムードに切り替わります。そんな中で私はいつも「誕生日で喜んでいいのだろうか?」と思ってしまうのです。

これは別にこの日に限った話では無く、多くの方が命を落とした日の前日から当日にかけて私と同じ気持ちになる方は多いのではないのかと考えています。

が、しかし。そんな事気にする必要は無いと切り替えができる人も当然います。「そんな昔の事なんて知らない」という若い世代も増えてくる事でしょう。そして、当時の大変な状況下で産まれた命もあります。これは誇っていいことです。

では私が抱いているこの気持ちの正体は一体なんなのでしょうか。

身勝手な罪悪感

私が抱えている気持ちの正体は何か。言い切ることはできませんが、おそらくそれは『身勝手な罪悪感』だと思います。
あのつらい出来事が忘れられる事に対する恐怖なんかでは決してありません。
私はそこまでできた人間ではありませんし、あの地震で失った物はあまりにも少ないです。

つらい想いをした人が居ることを私は知っている、だけどその人達の味わってきた苦痛は知らないし全てを知ることはできない。

初めは何となく誕生日に対するコンプレックスについて考えていただけでしたが、気づけば今までの自分の愚かさを、今での認識の甘さを確認する事になった。
「気にしなくていいよ」と言ってくれる方もいるかもしれない。でもそれじゃあ自分の気が収まらない。

こんな私に出来ることと言ったら【見て】【聞いて】【伝える】事。

自分にどこまでできるかわからないけど、もう一度あの日の事について勉強しなおそう。

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