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誕生日、ヤギ小屋を食べる

 そろそろコースも終わりに近づいてきた頃、スタッフさんがまた惑星のごとくテーブルの隙間を縫って近づいてきた。

 しかし今回はコロコロ転がった荷台も一緒だ。そこにあったのは、まるで重要文化財のようにガラスケースに保護された、色とりどり、形も様々なチーズであった。そのチーズの美しさはまるで宝石のようで、数えてみると、9種類もある。

 私と彼は、高級レストランに来ていた。
リッチマンなのではない。彼の27歳の誕生日プレゼントに散々悩んだ挙句、えいっと勢いでわたしが予約したのである。

 若い頃の経験は財産だ。感性が若いうちに、できる経験はしたほうがいい。その言葉がビジネストークなのか真理なのか、わたしにはイマイチわからないが、とにかく身の丈にあわない高級レストランに、3万円という大金を投じてしまった。

 普段一食30円の乾燥蕎麦を食べているわたし達が、高級フレンチフルコースの味など分かるわけもないのだが、彼が幾つになっても記憶に残る誕生日をプレゼントしたいというわたしなりの欲があった。

 本当はお金などかけずとも記憶に残る最高のプレゼントができれば良いのだが、いくら頭をひねっても、これだ!という良いアイディアは思いつかず、散々悩んで最終的にお金と老舗料理店様の力に委ねてしまおうと結論づいた。

 そのため5泊6日のレンタルドレスに身を包んだわたしと、リクルートスーツに身を包んだ彼は、ホテルニューオータニの中にあるフランス料理店で、初めての卒業式のように背筋を伸ばしながら、素晴らしきコース料理に圧倒していた所であった。

 結局素人のわたしの目や舌でも感じ取れるほどの素晴らしい料理やサービスで、彼もおいしい、おいしい、と目を閉じて味わい、どっぷりと料理を楽しみ大変上機嫌になっていたところに、例の重要文化財のようなチーズが運ばれてきたのである。

「追加料金にはなってしまうのですが、ご希望ございましたら気になるチーズをお取りさせていただきます。」

 スタッフさんの言葉を受けて、彼は是非とも食べたい!食べてもいいでしょうか?を半分ずつ混ぜた目をしてこちらをじっとみている。

「あの、ちなみにこのチーズ、一つおいくらするのでしょうか?」
彼が姿勢を再度整えて、ていねいに尋ねる。助かる。私もそれが気になっていたのだ。

「そうですね、小さなカットであれば一つ千円程度でお出しすることは可能でございます」

 どれほど小さなカットなのかは不明だったが、こちらとしては味さえわかればいいのだ。今日はハレの日、既に大金を払っているのだ、数千円くらい今となっては気にしていられない、と思った。

「いいじゃん、せっかくだし。わたし食べたい。あの、普段あまりチーズを食べないのですが、おすすめがあれば教えてください」

 わたしはとりあえずスタッフさんに解説を求めてみたはいいものの、訳のわからない単語が右から左に言葉が小川のようにすいすい流れていき、かろうじて聞き取ることに成功した、食べやすいヤギのフレッシュなチーズと、牛の青カビチーズ、スプーンですくっていただくエポワスというチーズを食べることにした。

 ドキドキしながら待っていると、親指サイズに切り分けられた、一口サイズのチーズが運ばれてきた。

「少々チーズのお味が食べづらいと感じた際には、こちらの蜂蜜とご一緒にどうぞ」

 そういうとスタッフさんはお皿の空いたスペースに黄金色の蜂蜜をたらりと載せ、スプーンをしゅっと手前にひいて勾玉模様を描いた。

 高級チーズだ。きっとスーパーのとろけるチーズとは何もかもが違うのだろう。チーズを前に、わたしはドギマギするわたしの横で彼は真剣な眼差しでじっとチーズを眺めていた。

 そして、スタッフさんのアドバイスに従って、比較的さっぱりして食べやすいというヤギのフレッシュなチーズをフォークで刺し、小さい口で食べた。

「ふはは!ヤギ小屋」

私にだけ聞こえるような小さな声で確かにそう言った。そしてにやにやしながら残りのチーズに蜂蜜をたっぷり塗った。

 慌ててわたしも彼に続いたが、それはまさしくヤギ小屋の味であった。スプーンですくったエポワスというチーズはもっとワイルドな味わいで動物園が鼻から抜けた。

コースを全て終えて、ホテルに戻る帰り道。
「いやあ、すごかったね。チーズ。びっくりだよ」
彼はにかっと笑い、満足そうに言った。

 おそらく27歳の誕生日は、美しき高級フレンチよりも、一緒に散歩した立派な庭園よりも、ヤギ小屋を食べた日で記憶される。

 やはり身の丈にあわない事をしてしまった。チーズは奥が深いのだ、最初から冒険しすぎたかもしれない。いつか本当のチーズの価値がわかるような大人になりたいと、素直におもった。

 はたしてあのチーズの記憶は本当に我々の財産になるのだろうか、そんなことをたまに思い出す。


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