蚩尤をめざすキングダム羌瘣より前の話
はじめまして。スペースヒーラー・はふりねです。
毎日一時間、日本と地球と大宇宙とみんなとわたしを祝っています。
こちらでは地相鑑定をしたり1500社の神社浴経験を踏まえた、こだわりの神社浴やこだわりの神々についてのお話をします。
今回は「蚩尤」という神について調べます。なぜだか、日本と中華とか朝鮮半島とかとのかかわりについてカギを握る気がしてならんのですよね~。
蚩尤のプロフィール
「蚩尤」という神については伝説で語られることが多く、その特徴をかいつまんで見ていきます。
・紀元前3000年ごろのこと、炎帝神農氏(赤帝)の子孫であり、はじめは黄河流域の広い範囲を治めるよう任された。
・蚩尤は九里族81氏族を率いて黄河流域に勢力を大きくしたけれども、それを脅威とした炎帝族と戦って勝利した。
・紀元前2700年から紀元前2500年ごろ、蚩尤族を抑えきれなかった炎帝族は黄帝族に助けを求めたので、黄帝族と戦った蚩尤族は3年間の抵抗の末敗北し、その後青海省などの山々で羌族として、南へ逃げてミャオ族として、北や東へと散っていった。
・かつては黄帝の六宰相の筆頭で、金属精錬の責任者を任された。
・戦争の神で、戈(か)・矛(ぼう)・戟(げき)・酋矛(しゅうぼう)・夷矛(いぼう)を発明した。
・風・雨・煙・霧などを巻き起こし魑魅魍魎とともに戦うので、黄帝族は方位磁石盤をもってこれに対抗した。
・蚩尤は徐々に神格化され「青銅の頭と鉄の額」「8本の腕と8本の指」「牛の蹄、4つの目、6本の手を備えた人間の体」「砂と石を食べる」という姿で山東省の墓標に現れる。
・炎帝と同じく牛をトーテムとする。
・『史記』による八神のなかの兵主神とされる。
蚩尤が生きた時代
蚩尤の時代は紀元前3000年~紀元前2500年ぐらいのこととされるので、黄河流域で雑穀栽培が始まった紀元前7000年ごろから4000年ぐらい後のお話になりますね。というのも、その時期の大陸の東海岸方面はまだ海面が高く海の中であったと思われます。朝鮮半島も半分ぐらいは海の中であって、日本列島のカタチはあっても面積少な目です。紀元前7000年ごろは黄河流域だけでなく、南の長江の中流域や北の遼河の内モンゴルでも文化が始まっていますが、「内陸から始まった文明」ということでなく、紀元前7000年ごろはちゃんと海に面していたのだろうと思われます。温暖化が始まり陸地が増えて来て今の地形になって蚩尤たちが開拓したのが黄河下流域でした。
蚩尤が兵器を発明できた冶金技術の伝播ルート
蚩尤は鉄などの金属兵器を発明したという伝説があるというところで言えば、冶金技術が発達していたステップ地帯で見つかっているいくつかの文化があります。モンゴルの北にあり、モンゴロイドがいた紀元前2900年ごろからのチェムルチェグ文化はそれより西、中央ユーラシアにある紀元前3500年ごろからコーカソイド中心のアファナシェボ文化に影響を受けているようです。アファナシェボ文化は、同じくYハプログループR1bをもつコーカサスのヤムナ文化の影響下にあると考えられます。
そのヤムナ文化にはマイコープ文化が影響し、その前身として紀元前4500年ごろからカスピ海西沿岸で冶金技術が発達したレイラテペ文化に行きつきます。
中央ユーラシアに発達したアファナシェボ文化の後継といえる紀元前2100年ごろからのシンタシュタ文化では、世界初めての戦車が見つかっています。シンタシュタは周囲を擁壁で囲まれていて、すべての家で鉄製武器製造がおこなわれていたようです。ステップ地帯で馬の飼育が紀元前6000年ごろにはじまり、シンタシュタでは鉄の加工技術が発展し、戦車を馬にひかせるばかりでなく、騎馬も始まったのです。シンタシュタの騎馬傭兵はその時代の最先端でありニーズがあったのです。
紀元前3000年~紀元前2500年のあたりに生きていたとされる蚩尤族が、様々な武器を発明したという伝説があるということは、アファナシェボ文化の東アジアの後継であるチェムルチェグ文化との接点が考えられます。
チェムルチェグ文化にわりあい近いところの中華の文明として遼河文明があります(1000㎞以上も離れてるけどね)。紀元前4700年~紀元前2900年ごろまでの紅山文化がありますが、紀元前4200年ごろから始まった気候変動で砂漠化したので紅山人は次第に南下し、黄河文明の人々と融合したと考えられています。逆に北へ行きチェムルチェグ文化の元を作った紅山人も一部いたのではないでしょうか。ステップが広がった時期、YハプログループNをもつ遊牧民は行けるところまで行くのではないかと思います。そうしてコンタクトが取れれば、東へ西の情報が手に入りますから。
蚩尤と遼河文明と日本
遼河文明では紀元前6200年ごろから紀元前5400年ごろにかけての興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)で翡翠の玉やけつ状耳飾り、円筒型土器、龍のカタチが出現しており、中華の龍文化の濫觴がここに見られるようです。これらの出土品は青森にある三内丸山の人々との交流・交易があったことを示していますし、この時期の日本列島にはYハプログループNを持つ人が中部圏まで広がっていたのです。DNAも混ざっているので縄文時代の北陸・東北は興隆窪文化圏といえるのかもしれません。
とすれば、大陸に渡って定住した縄文人がその後の紅山文化にかかわり、その後のチェムルチェグ文化にもかかわったということはありえなくはないかと思われます。何が言いたいかというと、チェムルチェグ文明と紅山文化を行き来した人々がいて、やがて砂漠化に従い南に異動していき、新興土地である黄河下流域の大文口文化に引き継がれたという、鉄と冶金技術の伝播ルートが見えてくるということです。縄文人や蚩尤は紅山文化末期に関わり、チェムルチェグ文化にもかかわった可能性が見えてきます。そうして鉄の技術をシンタシュタから輸入して中華世界にもたらしたので、武器を発明した神として存在感を示したのではないかと考えられます。
蚩尤=兵主神の祖ツハモノヌシ
ところで、日本にも蚩尤の影が見え隠れしています。「兵主神」を祀る神社があり、兵主神=蚩尤を祀るということらしいのです。播磨(兵庫県)に多く兵主神社が分布するところから、渡来したアメノヒボコが日本を巡った場所に祀ったのではないかともいわれています。だとすれば垂仁天皇の3年ということなので紀元前26年ごろからのお話だというのですが。しかし『ホツマツタヱ』にツワモノヌシの名が見え、カンミムスビ(ヤソキネ)の弟としています。ということは、イサナキ・イサナミと同世代の古い古い神です。その性格は清廉潔白でアマキミの代理者として穴師をまとめる「穴師央神」の名を賜っています。相撲の神ともいわれる力自慢ではありましたが、「たまがえし」という祝を行う陰陽術の使い手でもありました。ツハモノヌシを祀る総本社は奈良県の穴師坐兵主神社であり、ご祭神として「兵主神」のほか、「大兵主神」「若御魂神」が坐します。兵主神が蚩尤だとしたら、大兵主神は、蚩尤の祖神でありホツマツタヱに登場するツハモノヌシだと考えられます。ツハモノヌシは第5代タカミムスビ(トヨケ)の子となっています。
蚩尤=羌族はD遺伝子
徐福が書き写したという『宮下文書』をまとめると、タカミムスビは炎帝神農で、その長男が黄帝、次男東州、三男南州、四男西州、五男農立(クニトコタチ)、六男北州、七男農佐(クニサツチ)ということです。中華には真ん中の中原(華夏)とその周囲の九夷とか四蛮族という考え方があります。東州は黄海沿岸地域、日本、高句麗、扶余、台湾など、南州は長江以南の越族、巴族、蜀族、三苗族など、西州は羌族、チベット族、胡族など、北州は東胡、匈奴、高済、鮮北、トルコ人などといわれます。すると長男黄帝は中原の主だとして、次男は台湾、三男は長江と淮河の間あたり、四男は胡族とか小月氏の羌族、五男七男は日本で、六男は東胡などの方面となります。蚩尤は六男の子孫である可能性が見えてきます。蚩尤は羌族とされますが、黄帝族に負けた後離散して、西の青海省や甘粛省の山に住む羌族となりました。そもそも、七兄弟の親である炎帝神農自身羌水で育った羌族の祖で、クニトコタチやクニサツチと共に日本へ移住したということになっています。この時代の羌族はYハプログループDの血が濃かったのではないでしょうか。
遼河人はYハプロNの人が多かったようですし、南下してD系の羌族やO系、C系と混血したでしょう。そして春秋・戦国時代となってD系の人々は逃げたのか駆逐されたのか(事実とは異なるにせよ40万人も生き埋めにしたという白起の話もありますしね)大陸にはほとんどいなくなります。
日本から出て帰還して再び出日本の繰り返し
紀元前6400年ぐらいに日本に富士王朝があったとされています。『ホツマツタヱ』の内容は富士王朝の記憶をのこすために書かれたのだとか。
徐福が書き写した『宮下文書』も同じ富士王朝の内容を記されています。クニトコタチとクニサツチが富士王朝の立役者ということですが、二神とももともとは大陸にいたのだということです。そして親であるタカミムスビとともに帰還を果たしたのです。というのも、タカミムスビの先祖である伏羲が生まれ育ったのはヒノモトだから、ということです。伏羲は女媧と共に大陸に移動し、その子孫である炎帝神農(タカミムスビ)が羌水で育ち、五男と七男と共に日本へと移住した、と。
その後、紀元前5300年ごろ九州の南で大噴火が起き、西日本は壊滅するという大災害で、生き残った縄文人は台湾へ大陸へと逃げて定住し縄文文化を伝達したことでしょうし、日本へ帰還した人々もいたはずです。東日本の人々は2000年もの長きにわたる村落を築いていた痕跡もあります。そうした縄文人は船を操って日本海流をわたり、大陸との交易をおこなっていたのです。大陸へ移住する縄文人もいたでしょう。蚩尤族はそうした縄文人だったかもしれません。
戦争の神蚩尤の働き
ツワモノヌシという神とその子孫はその後の記述が途絶えています。記述が途絶える神は時々いて、ツキヨミなどもその内の1柱です。そうした神は「外つ国(とつくに)」へと赴いたと考えられます。ツキヨミのお話は別に調べるとして、ツハモノヌシの一族は大陸へ渡り、ステップ地帯をやがて駆け巡ったのではないか。その子孫が蚩尤なのかも。そのように思えます。
ステップ地帯はオアシスロードよりも早く東と西を結んで情報が行きかうところでした。アイアンロードとも呼ばれるように、文明を開く鉄もこの道をたどって東アジアに伝播したのです。東西連絡の要所ステップ地帯を拓くという重要な働きを担ったのが穴師央神ツハモノヌシだとしたら、それは地球を統べる神の思し召しと言えるかもしれませんね。