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2023/04/30 推敲の不可能性と書きあぐね続けること
先日、ノーベル賞作家の大江健三郎さんの訃報を目にしたとき、ちょうど読んでいたのが新潮文庫の古井由吉『辻』だった。巻末に古井由吉と大江健三郎の対談が載っていた。折しも。2020年の2月に古井由吉氏の亡くなった時、ちょうど氏の翻訳したロベルト・ムージルを読んでいたのを思い出す。
その対談の時点でふたりは自らの寿命を逆算して何を読んでいくか、という語りをしている。そこには純粋な読書への兆しを感じる。古井氏は太平洋戦争の空襲を経験しているし、大江氏はある意味で日本の戦後史、まっただ中を通り抜けて来た人だ。そんな長い人生への報いとして、読書をするための「静かな生活」が与えられるとすれば、それだけのために生きる意味のあるのではないか。ほとんど私勝手乍らにそう思うことにしている。
(大江)もっと散文的に自分の体験を言いますと、死がどういうことかについて、六十歳を超えてからはもう、考えなくなっています。五十代くらいまでは、死への恐怖に根ざして私はそれを考えていた。死は恐ろしい、この恐ろしい死はどういうものなんだろう、と常々考えていた。ところが七十代になった今は、どう自分の中を探ってみても、死の恐ろしさについて考えていないんです。(中略)
古井 僕もそうです。そして、そういう気持ちになっている自分をなんとも不思議に感じます。
死は怖れるとも、当面の間、この言葉に励まされる。
対談の終わりに、小説の起源について話が出ている。
古井 小説の発生源は物語といわれて、大筋はそうだろうけど、それだけではないと思うんですね。僕が思うのは、例えば裁判の弁明書もヨーロッパの小説の発生源の一つではないでしょうか。
ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』も終盤、カラマゾフの親殺しについて、弁護士、検察双方の華麗な見解が披露される。
西欧的な文脈で見れば、結局、全てを見通せているのは神しかない。逆に言えば、全てを知る者がいる、という安息は代えがたい。
古井 そうですね。神がいれば言葉の推敲は決まるでしょう。こういう言葉は正しい、こういう言葉は間違っていると判断させられる。個人が推敲するなんてきりのないことなんです。
大江 日本という国はもともと神が法廷向きじゃないし、輸入されたキリスト教の神を持ってる国ではないから、そういう神もなかなか私らの生活を裁く場に導入しにくい。しかしそのわりに、われわれ日本人の小説は健闘しているんじゃないかという思いはあります。
ゆえに推敲の不可能性がつきまとう。永遠に文章に斧鉞を加え続けること。書きあぐね続けること。どこかで投了しなければならないこと。更に次の仕事を続けること。それが生に通じていく。
途方もないことだけれども、見事に成し遂げた先達がいることを見ると、それ自体が希望に映る。
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