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4/22 勇者は自分を「勇者」と言えない

 昨日、どうぶつの森をやったら、虫を1.5倍の値で買ってくれるレックスがいたので、タランチュラを捕まえに竹の島を粘りに粘り、20000マイルくらい使ってやっと出したんですが、土砂降りの雨でタランチュラが湧かない。
 こうなりゃ止むまで永住も辞さない、と雨が上がるのを待ってたんですが、その間にガッと読み進めていたのが、次のシリーズ(の3巻)。

 最近はゲームデザイナーの本にハマってきています。ゲームばっかしてるので当然興味は持てるし、ゲームを作る人ということは確実にクリエイターなわけなので、自分も創る人を志している関係、参考にし尽くしてやろうという気概になって、バリバリ読めてしまう。
 全体的に取り上げられているのは、主にアーケード全盛期からファミコン、下って64/ドリームキャストの、いわばコンピュータゲーム黎明期の立役者たち。それぞれがそれぞれのゲーム観を社会にどう通してきたのか、という意味での「ゲームの企画書」というタイトルになっていますね。
 ざっと読んでみると、この方々の「これから自分の作るものは絶対に面白いんだ」という確信の強さが本当に尋常でなく、それを実現するためのこだわりが半端ではないことにビビります。桃鉄とか不思議のダンジョンとか、バランスそのものがゲームみたいなものだから、無数にある確率というものを延々いじっていくわけです。絶対感覚わからんくなるよなあ…と思い馳せてしまう。

 で、これを読んで一番びっくりしたのは、ドラクエの勇者が無口なのはキャラを立たせるためだったということ。
 個人的に、ゲームの主人公が無口っていうのは当然のことと思っていて、何故というと、主人公を没個性的にすることでプレイヤーが自身を移入しやすいようにするためです。だから、メインのキャラは最小限に抑えるもの、と。

 少し考えればわかることなんですが、何があっても黙っているやつなんて、既にキャラがギャン立ってるわけですね。往年の創作物にも絶対いたはず。そして、無口であることは勇者と非常に相性が良いということです。どういうことか。漫画家の小池一夫の塾生であった、さくまあきら氏の言です。

 例えば、『ドラクエ』では主人公が喋らないですね。あれは小池先生の理論を守っているんですよ。自分で「私が勇者ですよ。私は凄いですよ」と言っても、周囲は誰もそうは思ってくれない。だから、本人が自分のキャラを説明しちゃダメなんです。あくまでも周りが「あの勇者の噂を聞いたか」とか「今度転校してくるアイツは凄いらしいぞ」とかいうふうに噂してくれるのが大事なんです。(『ゲームの企画書(1) どんな子供でも遊べなければならない』電ファミニコゲーマー編集部、角川新書)

 だから、桃鉄も秘書がいて「社長!」とめちゃくちゃ呼んでくる、ということです。思えば、桃鉄の社長も喋らない。喋ってしまうとキャラが損なわれる、というか、納得感が薄れてしまう。プレイヤーがゲームに参加できるのはプレイアブルなキャラを操作してのみなのだから、この納得感が死んでしまうと致命的なわけです。
 ゲームの培ってきた「勇者」の文化的蓄積は凄まじくて、キャラとしてのけたたましさは一級品ですね。もはや勇者には何をさせても面白い環境…、もはや一周回って、無口な方がキャラとしてギャン立ちするような気までする。
 
 『ゲームの企画書』3巻分、それぞれ違うアプローチからのインタビューだったので、ほぼほぼ一気に読めました。
 不思議のダンジョンのもろもろの数字は全部エクセルで管理してて、見ればどういうバランスか想像つくと言っていて「???」となったり、VRゲーム「Rez Infinite」の水口氏の回を読んだ直後は、VRやりたくて暴れ出しそうになったものの、Amazonで値段を見て冷静になったり、日本ファルコムの回では驚くべき自然さで新海誠氏が出てきて笑いそうになったりで、面白かった。

 午前3時まで粘ったけど雨は上がらなかったので、竹を抱えて帰りました。

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