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新型コロナウイルス最終形態へ

海外では、まだまだ新型コロナは猛威を奮っているというのに、ここ日本では、「異常」といっていいほどに、その状況は落ち着いてきている。この事自体、良いことではあるのだが、実際これがどのようなことなのか、ということを、個人的な見解で書いていきたい。これは、私の勝手な、妄想的でもある、希望的主観である。

新型コロナウイルスは無毒化という最終形態へ

結論から言うと、新型コロナウイルスは、ここ日本で、「最終形態」といっていい形に落ち着いたのではないか、というのが、私の考えである。

では、その最終形態というのはどのような形態かというと、「感染しても無毒であり、発症はしないが、その痕跡のみ残す」というものだ。実際、その根拠となる記事がここにある。

感染しても、本人が感染したと自覚がなければ、それは感染者とみなされない。でも、そのような人が増えたとして、一体そこになんのメリットがあるのだろうか?

ここからは、あくまでも推論である。

まず、ウイルス側に関してのメリットであるが、これは、前回の記事にも書いた、ウイルスの生存本能・種の保存の法則に基づく、生存への欲求によるものだ。

ウイルスは、その種の保存という生存本能に従って、進化していく。その進化は、島国という、ガラパゴス的な日本という土地で、今、このように進化してきているのだと、私は考える。ちなみに、2020年8月の段階で、私は以下のような考察をしている。

この頃から、ウイルスは、その毒性を弱めていくはずだと、私は主張している。そして、それは変わることはない。

でもここで、あえて暴論を主張したいと思っている。

新型コロナウイルスに感染するメリットとは?

これは最近感じたことで、新型コロナウイルスにとって、人間に感染していくことは、その生存を拡大するものであるので、まずは感染を拡大させる必要があったのだが、実は人間にとっても、「新型コロナウイルスに感染すること」が必要なことだったのではないか?ということだ。

これは、実は全く根拠のない話なのだが、新型コロナウイルスが、無毒化してもその感染を広げているとして、そこに「何の目的があるのだろう?」とふと思ったのだが、もしかしたら、そこには確固たる目的があったのではないか、と思ったのだ(あえて過去形で書いている)。

つまり、人類は、ウイルスに「感染」することで、新型コロナウイルスのRNAを体内に取り込む必要があったのではないか、ということだ。これはある意味、「神の意志」とでもいうもので、将来的な「なにか」(新たなる感染症)のために、「感染」(ワクチン接種を含む)という行為が必要だったのではないか、ということである。

その根拠となってくれるかもしれないのが、この、過去の遺物ともいえる、永久凍土に眠っている、「過去、および未知のウイルス」の存在である。こうしたウイルスに対応していくために、事前に、その予防措置として「感染するという行為」が必要だったのではないか、ということだ。

新型コロナウイルスと神の意志

こうした未知のウイルスに対応していくために、新型コロナウイルスのRNAが必要であったとするのなら、それは、人類の種の保存という目的のための、「神の意志」なのではないかということだ。

これは暴論であり、また、完全な推論でもあり、当然、証明のしようもない話だ。もし仮に、将来的にそれが証明されたとしても、「偶然」ということで処理されるであろう。でも、この仮説自体、なかなか面白いものだと、個人的に感じている。そして、この仮説が「正しいモノ」であることを、切に願う。

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