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読書記録#7

休日、読書にかかりきりになっていると、かなりの物事を忘れる。食事はもちろん、着替えやお風呂も後回しにしてページを繰り続ける。読むペースは遅いので三日に一冊程度ではあるが、その日はずっと本の中にいる。休日、わたしは本の中に逃避している。
最近は琴線に触れた部分に付箋を貼っているので、読書記録をより詳しく書けると思う。長くなるだろうが、自分のために書いてみる。

『封印再度』森博嗣

森博嗣「S&Mシリーズ」の五作目。毎回のタイトルの英訳や、扉にある引用がとても面白い。ミステリに登場する家族は往々にして不気味な関係や代物を抱えているが、今作の雰囲気はとても好みだった。人物たちの会話が不思議に心地よい。このシリーズではたいてい、思索の跡を感じる犀川の言葉に魅了されてどんどん読み進めてきたのだが、今回付箋が貼ってあったのは西之園の独白だった。
被害者家族との接触で目頭が熱くなった西之園。しかしその涙はその家族を思っての悲しみではない。父親を失った被害者に過去の自分を重ねて、過去の自分を憐れんで泣いたのだ。人間は、他人ではなく自分のことで涙を流す。このことは、かなしみについて考える上で大切な気がする。

『幻惑の死と使途』森博嗣

「S&Mシリーズ」六作目。シリーズをひととおり読み終えて、一番好きなタイトルを挙げるとするならこの作品を選ぶ。マジックやイリュージョンという、近頃ではめっきり見なくなった(ただそういうものに関心がなくなっただけで、本当はまだ流行しているのかもしれないが)代物に対して、考えを改める機会になった。
付箋は二か所。一つ目。普段はそのしたたかさを武器にずんずん事件に介入していく西之園嬢が、力学の勉強をきっかけに、なぜかとてもナイーヴになり、傷付いてしまう。犀川はそれを「成長」だという。勉強によって世界の合理的な部分を学ぶと、感情的な部分も自然とついてくる、のだそうだ。世界の見方が変わると、自分自身へのまなざしも変わってくる。西之園は自分に足りない感情的な欠点を一つ発見したのだ。
ぼくはそのように生きられているだろうか。この数年で感情的な学びはかなり得られたと思う。20歳までは本当にそのような学びがなく、精神的に幼かった気がする。なのでいまもその遅れを引きずって、絶賛勉強中だ。
二つ目の付箋は事件の真相が明らかになった箇所に近いのでネタバレになるかもしれない。気を付けて書く。
「名前」の力について。言葉の品詞の中で、名詞は特に高度な情報を内包する。世界のほとんどには名前があり、名前の活動は止められない。「〇〇」という人間は、外部からの評価を、究極的には名前で受ける。「〇〇」が才覚にあふれ知性豊かな人間であるか、愚鈍で悪辣な人間であるか、すべて「〇〇」で表現できる。『「〇〇」のような人間になりたい/なりたくない』という言葉には多大な情報量がある。(〇〇について知っている人間であれば。)
これで伝わったかはわからないが、この「名前」の力というものに私はとても驚いた。とても面白い。

『夏のレプリカ』
『今はもうない』
『数奇にして模型』
『有限と微小のパン』森博嗣

「S&Mシリーズ」を最後まで読めた。
『幻惑の死と使途』と『夏のレプリカ』の奇数、偶数の章立てや扉の引用、解説までほとんど充実したものばかりで、読んでいる間ずっと幸せだった。ミステリ小説に抱いていた抵抗感はもはやなくなっている。人間の思想や思索の跡が垣間見えるキャラクターはジャンルに関わらず魅力的だし、これからもどんどん読みたい。幸いにして森博嗣はまだまだ著作があるし、気になるミステリ作品も少しずつ見つかってきた。楽しみ。

『勉強の価値』森博嗣

森博嗣はミステリ以外の著作もかなりある。新書も何冊か出されていて、書店で特に気になったタイトルを選んでみた。
前半まではいわゆる「勉強」について話している。学校でする勉強と子どもにとっての勉強について、やや主観に過ぎると感じる部分もあるが的確に説明している。後半からは勉強というものの本質について話しており、ここが一番興味深かった。二十歳になってからの大人の勉強について。「個人研究」とまではストイックにできないかもしれないが、僕も短歌や語学、文学についてもっと勉強していこうと思えた。勉強のモチベーションが上がる一冊。

『一人称単数』
『女のいない男たち』村上春樹

はじめて村上春樹の小説を読んだのは中学生のときだった。たしか「東京奇憚集」だったと思う。当時はその不気味さとアダルトな雰囲気が受け入れられず、何となく避けていた作家だった。
最近「ドライブ・マイ・カー」をネトフリで観た。とてもよかった。相変わらず性的な描写は少し身構えてしまうけど、その内容はとても僕の深いところに風を吹き込んでくれた。これをきっかけにもう少し村上春樹作品に触れたいと思い、原題小説の「女のいない男たち」、表紙にひかれて「一人称単数」を手に取った。
村上春樹の文章は唯一無二だという評判がしみじみわかってきた。日常生活における抒情的なものをことごとく、それでいてバランスよく切り取り、ワインをくゆらせるように、雰囲気のある言葉を並べていく。その世界観を生きる人間たちは常にモラルのラインのギリギリを生きている。
当たり前だがこうした物語を楽しめるようになったのは、自分の変化に他ならない。人間の醜さを実感として知り、実際に社会に包摂されない人たちの痛みを少しずつ知って、なにかの許容範囲が大きくなった。たまたま倫理的に正しかった(その世界では大多数の側にいた)人間が、そうでない外れた人間をないものとして扱っている現状に怒りを覚えた。そうした精神的な変化が、これらの作品を魅力的に見せているのだと思う。
村上春樹のその世界観は、「都会の日常」というイデア的なものを描いているという点で空想的だが、人間は非常に人間的であるところが意外だった。「こんな世界でこんな風に生きている人間は、そりゃ都会には何人かいるのかもしれないが、私の生きる世界にはいない」という感覚がありつつ、描かれているものはまさに人間そのものな気がする。(それがすべてだとは思わないが。)
まだ短編集を二つしか読んでいないのになにか語ってしまった。すくなくとも現時点ではそのように考えている。これから長編作品もたくさん読んで、逐一考えを改めていきたい。

『夜になると鮭は....』レイモンド・カーヴァー 

二年前、抑うつの症状が出始めたとき、ひたすらピアノ音楽やアンビエントを聴いて、どこかに流れ、過ぎていく時間をできるだけ忘れようと努めていた。夜の長さに絶望し、動けない自分ができた唯一のインプットは音楽だった。その時に坂本龍一、折坂悠太、レイ・ハラカミなど素敵なアーティストにたくさん出会えたのだが、その出会いのひとつに「cero」というバンドがあった。「POLY LIFE MULTI SOUL」というアルバムを何度もリピートした。その中の一曲に、「夜になると鮭は」というのがある。この曲の歌詞はレイモンド・カーヴァ―の「夜になると鮭は」という詩の、村上春樹訳がそのまま使われている。この曲は本当に僕を流れに乗せて運んでいってくれた。最近まで原題の小説の存在を知らず、たまたまXのタイムラインに流れてきて知った。
アメリカの小説はまだ読んだことがなかった(SFを抜きにして、文学というものに絞れば)。風土や文化、時代をよく知らなくても楽しめた。詩のことばが好きだった。引き続き読み広げていきたいジャンル。

『邪悪なものの鎮め方』内田樹

高校か中学か忘れたが、国語の問題で評論が出たときに、何度か目にした名前。それが僕にとっての内田樹だった。当時はなにか、なるほど!と思った気がするが、その内容も何も覚えていない。
いわゆる「知識人」と呼ばれるような人たちに対するうさんくささは、いつからそう感じてしまうようになったのか。ホリエモン、ひろゆきが流行し始めたあたりからかもしれない。彼らはネット配信やSNS上で、自らの活動に直接関わらない分野についても意見した。それは切り抜きチャンネルの流行であらゆる世代に、時には発言の一部分だけが誇張されて拡散していく。耳当たりのいい言葉は嘘くさい。社会や政治についてあれこれ言うが、僕はどうしても「またやってるな」くらいにしか思えなくなっていた。現に社会も政治も、少しも改善している様子は見られないし、おそらく多くの若い世代は政治に何も期待しなくなっている。右翼や左翼、リベラルといった立場の論争もなんだかずっと続いているけど、ネットではその揚げ足取りのようなくだらないやり取りしか見られない。平和ボケだと言われればそれまでかもしれない。
そんなことをふんわりと思っている状態で古本フェアをふらふらしていると、この本に出会った。装丁とタイトル、300円という値段にひかれて購入。別に政治思想に関する本ではない。内田樹氏は過去に政治活動をしていて、左派のように扱われている記憶があったので話半分のつもりでページを繰り始めたが、存外面白くすぐに読み終えた。タイトルの通り、かなり人間の暗い部分の思考や言葉の特性について話していて、付箋も無数に貼った。エッセイの形式だが、こういうエッセイもあるのかと参考になった。人の考えを知ることは楽しい。
付箋ポイントから一つ。『病とはある状態に「居着く」ことである』という柳生宗矩のことばを引用し、こだわること、被害者の立場に居続けることの問題を話していた。このことは自分の経験からも少しわかった気がした。折に触れてもう一度読み返したい。

『人間失格』太宰治
『地下室の手記』ドストエフスキー

この二つの小説はどうしても並べたくなる。どちらの小説の主人公も、社会とのずれ、強大な自意識、能動的な生の喪失から後ろ暗い結末を辿ることになる。二人とも秀でた才能や美点はあるが、どうしてもうまく生きられない。この自意識の問題というのは、若者の精神に特有だと思われがちだが、最近はそうでもない気がする。先の「同じ状態に居着く」ことの問題と重なるが、現代には自意識の問題をそのままに何年も、何十年も生きている人間が多いようにみえる。みえるのはインターネットや実生活でも同じで、悲観的な人間がいつまでも悲観的であるのは、同じような人間同士で固まっているからだと思う。もちろんそうした場が必要でないとは言わない。自分自身、精神が疲弊した際に有用なのは、健常者の的外れなアドバイスではなく、同じ/似た状況の人間とつながることだと、身をもって理解した。けれども、そこは、ずっといるべき場所ではない。いつかは自分の能動的な生のあり方を見つけていく必要がある。つよく生きる必要はないけど、自分が生きていくことを許し、肯定する必要はある。
小説のように、もはやそういう性質は変えられないものとして諦め、絶望し、後ろ向きな生を送る必要は、現実では全然ない。そう信じたい。
最近よく使う言葉に「したたか」がある。一般には泥臭いニュアンスのある言葉だと思うが、僕はこの言葉が好きだ。「強さ」ではない。能力や実績ではなく、精神のあり方をほめたたえたいときにこの言葉を使っている。これが適切かどうかはわからないけれど、僕はしたたかに生きたい。弱さは弱さのままに、世界を愛していきたい。

『月は無慈悲な夜の女王』ロバート・A・ハインライン

だいぶ前から積んであったSF小説。ハインライン作品は「夏への扉」に続き二作目。「夏への扉」を読んだときもそうだったが、とにかく「発明」がすごいな、と感じた。舞台は月の都市で、どのような科学技術があり、生活があり、政治形態があり、婚姻制度があり、家族があり、そして人間が生きているのか。とんでもない知識と想像力だと思う。
付箋を貼ったのは、「無料の昼飯はない!」というルールについて話している箇所だ。月世界はもともと、地球の犯罪者が送られる監獄だった。そこから世代を重ね都市ができ、ついには地球からの独立を目指すようになるのだが、この都市に成文化された法律のようなものはない。あるのは「無料の昼飯はない!」という信条だ。ここで暮らす人々は、すべてのものに対価を支払う。空気でさえ無料ではない(月面に大気はないから)。もし法律がないからといって人を殺したり、他人を侵害したりすれば、報復として宇宙空間に放り出されても文句はいえない。限られた資源、一つの行動が命取りになる宇宙空間での作業の中で、月世界人たちがそうした性質を自然と身につけるようになり、秩序が保たれているという話は、架空の話なのにとても現実的に感心してしまい、面白かった。

『山椒魚』井伏鱒二

この本を読むまで、「サンショウウオ」と「山椒魚」が同じであると気づかなかった。「山椒魚」という魚がいると思っていた。表紙のイラストや、話を読んでいるうちに「あれ……?山椒魚ってもしかしてサンショウウオ!?」となった。不思議。
どうして文豪は温泉地に旅行してばかりいるのだろう、と少し思った。そんなことはないのかもしれないが、旅人の話はとても多い気がする。
好きだったのは「シグレ島叙景」。素朴で、俗っぽさをかなしく書く感じがとてもいいと思った。

『姑獲鳥の夏』京極夏彦

分厚い分厚いと、その分厚さだけを評判に聞いていた京極夏彦だが、ミステリを探検していくうえでどうやら大切であると評判だったので手に取った。
序盤から量子力学の話が出てきて、SFっぽいな、舞台は現代なのかな?と思ったら昭和27年。自分が科学に疎いだけで実は当時から量子力学はあったのだ。最近の創作物にはよく量子力学の「観測するまで存在が確定しない性質」をうまく使ったものがあるので、勘違いしてしまった。
内容も世界観の雰囲気も独特だが、引き込まれる魅力があった。余裕のある時に読み進めたい。

『燃えつきた地図』安部公房

安部公房の長編小説の中でも、小説らしい小説だと思う。「人間そっくり」や「箱男」、「飛ぶ男」のように、読んでいるうちにだんだんと霧が立ち込め、迷路に閉じ込められてしまう感覚もありつつ、話の筋はある程度見える状態で、物語としても楽しめる。
風景の描写に、毎回驚く。

「白だと思えば、白く見え、黒だと思えば、黒にも見える、乾ききった高速道路の舗装の上…」

新潮文庫 安部公房「燃えつきた地図」226p

だって、この状態の高速道路、絶対見たことあるもの。日差しは強くて、それゆえに白か黒かわからないアスファルト。話の中でも高速道路や車の運転についての独白があるが、そこも興味深かった。「ドライブ・マイ・カー」もそうだが、運転している人間の心理状態に何か特別なものがあると思うと、運転するのが少し楽しみになる。一日中都会の迷路を走り知らない人を運び続ける、タクシー運転手の仕事の心理もドキッとする部分があった。

『すべての、白いものたちの』ハン・ガン

ノーベル文学賞を受賞した著者の作品。パラパラとめくると、小説というよりは詩集のような様相で少し驚いた。実際、短いフレーズは詩のように圧縮されたコンテクストを持ち、とても惹かれた。構成は小説としての強度をもち、作中主人公としての物語と文章の美しさ、どれもすごかった。ちょうど読んだ時期が急に肌寒くなった日で、作中の冬の寒さと少しリンクして、良い時間だった。
自分も短歌で似たことができたらどんなに素晴らしいだろうな、と思った。実際に、僕の中にあるすべての白いものたちについていくつか歌を作ったし、そういう装置としての楽しさもこの作品にはある。おすすめ。

『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』品田遊

オモコロチャンネルでおなじみ、ダヴィンチ・恐山こと品田遊氏のエッセイ、小説集。ずいぶん前から本を出していることは知っていたが、そこまでのめりこむファンというわけでもなかったので、何となく読んでいなかった。この前偶然にこの本をいつも行っている書店で見つけ、うれしくなって手に取った。
人のエッセイを読むと、その人と会話している気持ちになる。共感できる部分が多いとなおさら。付箋もたくさん貼ったし、人のことをより理解できた気持ちになって単純に気持ちがいい。品田遊という人間がどのように生きてきて、どのような思考をし、どのように生活しているのかが少し見えて面白かった。しっかり自分の言葉を使って文章を書いている人の魅力があった。
小説も面白かった。他の作品も読んでみる。


この前父親と話して、短歌について、「自分の私性よりも、その作品としての価値を見てほしい、普遍的な価値のあるものを作りたい」というはなしをした。個人的なエッセイのような短歌よりも、普遍的なものに憧れがあるのだ。父は美大で油絵を描いていたので、作品を作ることを知っているし、人前で話すことも異常に得意だ。そんな父からは、「でも、自分自身の話をして、自分の生活を話にして切り売りするのもそれはそれで楽だし、エッセイにもいろんな形がある」と言われた。
たしかにエッセイはエッセイでもいろいろあることが、少しわかってきた。
これから何となく日記をつけようと思っていたけど、ちゃんと一日の終わりに自分と向き合って文章にすることは役に立つと、経験からも知っているはずだった。エッセイにするとかはまだ考えていないけど、その練習はしていても損はないだろう。

これからはできるだけ日記を書きます。読書も続ける!


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