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フランソワーズ・サガンをさがして

ある1冊の本を探していた。
フランソワーズ・サガン一年ののち」という本だ。
映画「ジョゼと虎と魚たち」のヒロイン、山村クミ子が自分のことを「ジョゼ」と自称するようになった由来となる作品だ。

フランス文学界ではそれなりに有名な作家らしいが、私は読んだことはない。
それもそのはず。この作品が発表されたのは1957年とかなり古い。
文庫本にもなっているが、すでに絶版。
地元の三田市立図書館にも蔵書はなく、Amazonで探してみると古本市場で5千円以上の値が付いていた。

一年ののち表紙

世代が違うんだよなぁ。
サガンを愛読した世代は、今だと70代以上だろう。
デビュー作の「悲しみよ こんにちは」や「ブラームスはお好き?」などのタイトルは、名前だけはなぜか知っている。いろんな作品で引用されているからだろう。

裕福なブルジョア家庭に生まれたサガン
上流階級の耽美で刹那的な人生観をその作品で赤裸々に描いただけでなく、サガン本人もスポーティーなファッション、高価なスポーツカー、ナイトクラブでの夜遊び、サントロペの別荘でのヴァカンスと、派手な生活スタイルで話題を振りまいた。


そういう時代だったのだろう。
日本でも石原慎太郎が「太陽の季節」を1955年に発表。
当時のインモラルな若者文化は、太陽族として世間の賛否を浴び、石原裕次郎が銀幕で新星のごとくデビューした。

ジョゼと虎と魚たち」でサガンを愛読したというジョゼは、おそらくお祖母ちゃんがサガンのファンであったのではないか。
50代の私でさえ馴染みが薄いサガン
今の若い人達が知っているはずもない。

とはいえ、
何とか手に取って読んでみたい。
ジョゼという人物が登場する作品は、「一年ののち」「すばらしい雲」「失われた横顔」の3作品である。

ジョゼと虎と魚たち」の原作である田辺聖子の短編小説を読んだ時、どうもしっくり来なかった。
主人公のジョゼ恒夫ともアニメ版とのキャラが違いすぎて、同じ作品とはとても思えなかったからだ。原作では2人は死んだ魚に例えられるくらい、自分たちの幸せな未来を思い描けない同棲生活で幕切れとなった。

三田市の図書館になければ、他の市の図書館も探してみよう。
宝塚市、神戸市、西宮市の図書館には蔵書なし。尼崎もなし。
やはり大都市じゃないとダメかな?

大阪府立中央図書館には、世界文学全集のなかに「一年ののち」が収録されているらしい。大阪市立図書館にも同じ蔵書があった。
しかし全集だと百科事典みたいに分厚いやつだ。
文庫本でいいんだけどな。どうせ借りれないし。

門真市の図書館には新潮文庫の「一年ののち」が蔵書として登録されていた。
ところが、貸し出し中とか><;
同じことを考える人はどこでも居るもんだなぁ。

伊丹市の図書館で蔵書を見つけた。
貸し出しもOKとなっている。

伊丹市は“ジョゼ虎”原作者の田辺聖子が晩年に住んでいた街だという。
市立図書館の名誉館長にもなっている。そんな縁があったのか。

伊丹市立図書館

ついに手にした。
読んでみて、なるほどなぁと思った。

これは確かに、アニメ版“ジョゼ虎”で出てきた司書のお姉さんが「しぶい」と評するだけのことはある。当時21歳で社会人経験もないサガンが、こんな40代50代の既婚男性の若い女を巡る愛憎劇を書きあげるとは驚嘆すべき才能だ。

文庫表紙

アニメ版のエピソードや台詞は、この作品をリスペクトしたものが多いように感じた。
例えば、ジョゼが5人と付き合ったことがあると豪語する台詞は、「一年ののち」に登場する新人女優・ベアトリスのことを踏まえてのことだろう。

また、恒夫が交通事故に遭うシーンは、アニメ版だけで原作にはない話だ。
フランソワーズ・サガンは、この作品を書き上げた直後に愛車アストン・マーチンで事故を起こし瀕死の重傷を負っている。そして、その直後に付き合っていた人と最初の結婚をするという流れは、アニメ版のラストシーンを思わせる。

加えてサガンを飼っていた。
“ジョゼ虎”の原作には登場しない。アニメ版だけのオリジナルだ。

一年ののち」終盤で、失意のベルナールジョゼに言う。
「ぼくの言うことは無礼に聞こえるでしょうが、そんな平穏な幸福はあなたに似合いませんよ」
医大生ジャックとよりを戻し、楽し気にスウェーデン旅行について話すジョゼ。そんなありきたりな幸せに浸る生活なんて、死んだも同然じゃないかと吐き捨てるのだ。

サガンほどの影響力を世界に与えた女性作家は、残念ながら日本にはいない。
田辺聖子の原作”ジョゼ虎”のラストシーンは、明らかにこの退廃的シニカルな思想の影響を受けている。
幸せな生活、輝かしい未来なんて幻想だ。いずれ逃れようもない破局的な終末がやってくるという、漠然とした不安感

この重苦しい時代の雰囲気は、確かに感じたことがある。
米ソ冷戦期。泥沼化したインドシナ戦争。
アルジェリアの独立戦争が始まったのもこの頃だったな。

しかしながら、令和のこの時代を生きる若い人達にとっては、高度成長期の輝かしい時代の記憶もなければ、冷戦期の陰鬱な重苦しい空気も歴史の彼方だ。
今の大学生は割と真面目だし、昭和の時代ほどエリート意識はないかもしれないが、破天荒な武勇伝を自慢気に話すカス野郎は昔より少なくなったように思う。

アニメ版“ジョゼ虎”は、サガンをリスペクトして元ネタを取り入れつつも、最後の決定的な部分でサガンの呪縛から逃れることに成功した。
それは慎ましやかで平穏な生活を続けることは別に死でも何でもないし、そうした毎日の生活自体が冒険に満ちた楽しい世界の発見であるという結論だ。

波乱に満ちた恋愛とか、スリリングな不倫とかいらない。
一緒に笑って過ごす日常の生活だけで充分楽しいのだ。

ドラマは死んだ。恋焦がれる思春期の恋愛も終わった。
けど、ドラマにならない人生はこれからも続いていく。

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