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8/12 いま生きているということ

コロナの後遺症が地味に続いていて、デスクワークをしていても息が苦しい。気休めの深呼吸ばかりしているので幸せがどんどん失われて行っている感。
SpO2は98~99、脈拍も100前後なのでどこかしらに不具合があるわけではないのだけれど、とにかく息が苦しいし胸が重たい。
どうすりゃいいんだ。


以前から気になっていた『死なれちゃったあとで』(前田隆弘/中央公論新社)を読む。
著者の方が福岡ご出身ということで、ローカル地名(かなりローカル)にいちいちびっくりし、よりリアルに語りが入るからか、読むことが止められず一晩で読み切ってしまった。
「こりや死んどるね」にはならないし、「じゃあ明日」が来ないこともある。何度も語られる後輩Dさんの話が一番強く印象に残るけれど、でも101歳で亡くなった太宰府のばあちゃんが、まだ生きているのに「生を奪われた」話がつらかった。つらかったというか、私も同じようなことをしてしまっていたのではないのか、という恐ろしさも感じた(わたしは著者と同世代の福岡生まれ福岡育ち)。

私が「死」というものがあまりわかっていないのは、身近な人の死を体験したことがないからだと思う。今まで祖父母、伯父伯母を亡くしてはいるけれど、彼らは身近なようで、ちょっと遠い。
生活を共にした親兄弟、夫や子、ネコズは近すぎて、逆に死んでしまうことを考えられないでいる。想像ができない。

数回体験した初期流産で喪失感を感じはしたけれど、なんというか、あまりに近すぎて自分の中だけで生と死が完結してしまい、それ以上でもそれ以下でもないというか。
うまく言葉にできないけれど、私だけが抱えている「生と死」は、私と直結しているのに、とても遠くの場所にある。


後輩Dさんの地元である「種子島へ」行くエピソード。
Dさんのご両親は「もうみんな息子のことを忘れて人生を生きているのだろう」と思っているに違いない、と。でも自分はDさんのことを忘れていないと伝えたい気持ちで種子島へ行く。
道中、トラブルに巻き込まれながらもDさんのご実家へ行くと、ご両親もDさんの姉もものすごく前向きでにぎやかに暮らしていることに、著者はすっかり当てられてしまう。
ほんのちょっと太宰府のばあちゃんのエピソードに似ているな、と思った。ばあちゃんが心配だからと「生きがい」を奪った親戚たちと、「自分はDさんを忘れていないことを伝えたい」と島に乗り込む著者の行動は、相手のことを考えているようで自分のことしか考えていない。

 Dの話をしに種子島にやってきたはずが、一家の「人生の荒波を乗り越えるパワー」にすっかり当てられてしまった。挑戦することへのためらいがない。
 「結局、前向いて生きていかんと、楽しくないでしょ」
 力強い一言だった。

『死なれちゃったあとで』173ページ


ふと、谷川俊太郎の『生きる』を思い出す。

生きているということ
いま生きているということ

やりたいことも、目標も、なんにもない、空っぽな私だけど、いま生きている。無意味でちっぽけな私だけど、いま生きている。ただ、それだけでいいのかもしれない、と思った。



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