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「世間とは…」(『さびしさについて』)

『さびしさについて』は小説家の滝口悠生さんと写真家の植本一子さんの往復書簡をまとめたもの。心の底にずっとかかえているさびしさや悲しみ、ままならない思いについて綴っている。

滝口さんから一子さんへ「生活」
ふたりの往復書簡は2022年4月でいったん終了しているが、本書には2023年にやりとりした手紙の内容も収録されている。
「生活」は滝口さんから一子さんに送られた最後の手紙。歩くこともおぼつかなかった滝口さんの娘は2歳9か月になり、おともだちとのコミュニケーションの有様も複雑になってきた、その様子が書かれている。
押したり、叩いたり、つねったりというもめ方が、だんだんと言い合いをするようになった。やがて、AちゃんにぶつかられたBちゃんが周囲にそれをアピールしたり、当事者でないCちゃんが「Aちゃんが悪い」と咎めたり、自分はどういう立場に立とうか計算して立ち回ったりするようになってきた。
滝口さんは、こどもたちの間に「世間」のような空気が生まれてきたことが気になるという。集団内の規範から外れたことをみんなで非難する気質のようなものが。人はこんなにも小さなころから「世間」のような空気を読むことを身につけるのか。

この往復書簡には子育てについてのやりとりが多く見られる。滝口さんも植本さんも子どもの成長を喜び、離れていくことをさびしく思い、将来について心配したり、ときに反省したりしている。
そのなかで滝口さんは、娘が自分の思うように動いてくれないとき「おお個人だ」と感動すると書いている。親の願いがストレートに子どもに反映されてしまうのだとすれば、自分は親であることに耐えられないのではないかと。

子をまるで自分の一部のように思っている親が多いなか(私の母がそうであったから、偏見かもしれないけれど…)、滝口さんの手紙に心からほっとした。そして、私の母もそんな考え方を少しでもしてくれていたなら、どんなによかっただろうと。
子どもにとって最初の「世間」は親なんじゃないかと思っている。親の望んでいるように振る舞おうとしたり、望んでいるようなことを言おうとしたり。親の保護がなければ生きていけないし、親に自分を好きでいてほしいから。
人が「個」でいることは本当にむずかしい。

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