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映画『ミセス・ノイズィ』:ディスコミュニケーションの一方向性と非対称性

序文

 天野千尋監督の『ミセス・ノイズィ』(*1)を視聴する前にジャンルを見落としたことは幸いであったように思われる。物語を先読みすることをより一層の困難に陥れるのは緩急の激しい作品全体のリズムと誰にでもあるような日常性を想起させるリアリズムである。
 本記事では、本作品から窺い知れる現代的意義を最終的なゴール地点に見定めつつ、我々が陥りがちなディスコミュニケーションを検討していきたい。特に、コミュニケーションが失敗する要因として、その一方性と非対称性に注目しつつ作品を吟味したい。

一方向性のディスコミュニケーション


 本映画は小説家の吉岡真紀(篠原ゆき子)が夫の吉岡裕一(長尾卓磨)と娘の菜子(新津ちえ)と共に新居のマンションに越してくる所から始まる。真紀は水沢玲という名義で活動する作家であるが、近年はスランプに陥り作品が書き上げられずにいる。焦燥と苛立ちが募る真紀にとって怪しげな隣人若田夫妻はこの上ない災厄として映る。
 スランプに苦しみながらも心機一転、小説の執筆に励む真紀。明け方まで書いては消してを繰り返す真紀のみ耳に聞こえてくる騒音。その音の主は隣人である若田美和子(大高洋子)。美和子は早朝にも関わらず騒音を立て布団を叩いていた。

 映画を分析すると随所にディスコミュニケーション、つまりコミュニケーションの失敗が認められる。そうしたディスコミュニケーションの一例を以下に挙げてみたい。

・真紀—裕一:妻と夫、あるいは母親と父親という関係項で結ぶこともできる二人の関係は社会を構成する基本的な単位の一つである。しかし、この関係にも重大なディスコミュニケーションが生じている。これは冒頭の引越し直後のシーンでも明らかある。(注1)
・真紀—菜子:母親と娘のディスコミュニケーションが本作の起を担っている。
・真紀—美和子:隣人同士。物語のほぼ全編を通じて彼女達がコミュニケーションを成立させることは無い。

 作品全体を貫くこうした他者とのコミュニケーションの失敗。本来的に他者を理解することの難しさを単にあげつらっている訳ではない。問題は他者に対する一面的で一方向化された視座の固定にある。
 物語の序盤は真紀側の視点で見られている。簡単にその視点を追跡すると次のような流れになる。1.早朝に布団を叩く奇妙で非常識な隣人、2.その隣人と(自分の不注意とは言え)娘が一緒におり、3.その後注意したにも関わらず、再び隣人宅に娘が遊びに出かけている。
 ここまで作品を観た所で抱かれる感想は、不愉快な隣人、幼い子供の危機、小説家業と子育ての両立の難しさと苛立ち、と言った所だろうか。そして、この先の展開を予想するなら、隣人からの攻撃、子供を巻き込んだクライムサスペンス的展開などだろう。
 こうした感想を抱いたり予測を立てたりすることはある意味では正しく、そしてある意味では間違っている。と言うのも、このような感想や予測を立てることそのものが、視点の一方向性を我々に知らしめているためである。
 つまり、この時点においては、我々視聴者は美和子を悪として、あるいは子供を脅かす敵として認識せざるを得ない。この見方は演出上の問題であり、このように認識することは正しく演出を理解していると言える。一方で、後に明らかになるように、この視点は真紀の視点であり、関係者が複数人いる場合は必然的に視点も複数存在することになる。
 では次に、物語の中盤にかけて展開される菜子および美和子側の視点を辿ってみよう。1.母親に約束を反故にされたため、一人遊びに出かける菜子、2.子供一人での遊びが危険だとして家に招き入れる美和子、3.美和子と遊んでいたことを大雑把にしか伝えられない菜子。
 菜子が起きた事実を伝えられないことは問題ではない。仮に全て事実に即して余すことなく伝えた所で真紀の認識と一致することはないだろう。この中盤以降で展開されるもう一つの視点は、真紀の視点が複数ある視点の内のただ一つでしかないことを示すためのものである。
 コミュニケーションの失敗が単に他者理解の困難さを示すものでないのは、言葉を交わすことによってそうした失敗が回避できると考えられない点にある。つまり、いかに言葉を尽くしても理解され得ないものがある。そもそも、我々が見ているもの、感じているものを他者に完璧に伝える術は残念ながらない。
 この相互視点の獲得不可能性は、ネーゲルの思考実験(注2)や毛色は異なるかもしれないが、禅宗の沢庵和尚の説話などにも表されている(注3)と思われる。つまり、コミュニケーションは幻想である。それでもなお我々はコミュニケーションを続けるべきなのだろうか。この点については最後にもう一度立ち返りたい。

匿名性・多数性・野次馬


 物語が急転するのは後半、真紀が美和子をモデルに連載小説を若者向けの雑誌に掲載し始めた所から始まる。タイトルそのまま『ミセス・ノイズィ』と題された連載小説は、真紀の従兄弟である多田直哉(米本来輝)によって動画投稿サイトにアップされた真紀と美和子の動画により爆発的な反響を得る。
 しかし、真紀への賞賛と熱狂は美和子の夫茂夫の自殺未遂を発端に真紀自身を焼き尽さんとする炎上騒動に発展する。世間の同情は一気に和田夫妻の側へ流れ込む。

 ここでも前述のディスコミュニケーションが発生していると見て良いだろう。ただし、ここでは個人間ではなく、個人と匿名性を帯びた多数という非対称的な関係においてである。
 このディスコミュニケーションは個人間のそれより圧倒的に度し難い。なぜなら、そこにコミュニケーションが成立し得る余地はほとんどないからである。だとすると、そもそも、コミュニケーションの失敗=ディスコミュニケーションとは言い得ないように思われる。しかし、本稿ではそうしたコミュニケーションの成立不可能性をひっくるめてディスコミュニケーションと考えたい。つまり、こうした匿名的多数とのコミュニケーションはそもそも前提条件としてコミュニケーションが成り立つと言い得ないのではないだろうか。

 さて、このコミュニケーションの非対称性が有する特殊な関係をここで多少検討したい。本作で真紀あるいは美和子、茂夫に差し向けられるコミュニケーションは実に一方的で無責任なものである。ここで言うコミュニケーションとは、単に言葉を発するだけではなく、写真に収めたり匿名掲示板で書き込みを行ったりする行為を含む。
 茂夫を自殺未遂に追い込むのは隣人や夫婦間のディスコミュニケーションではない。端的に言えば、世間からの謂れのない誹謗中傷である。夫を庇う美和子の叫びは無遠慮な野次馬の嘲笑によって掻き消される。こうした他者の存在をエンターテイメント化する風潮は現代社会に対する痛烈な批判として受け止められるべきだろう。この点については次節で改めて省察する。

 一方で真紀の側はと言うと、さんざん持て囃した世間は一手に背を向ける。連日マスコミに追われ、ネット上でも炎上する始末である。この状況を単に彼女自身の自業自得と見ることが出来るだろうか。確かに、隣人美和子に対する偏見・一方向的な視座に基づく自身の体験を小説という形で世間に公表し、剰えその評判を好ましいものとして受容している。この点に関して彼女を擁護することは難しいだろう。
 しかし、連載作品という形態を取り、世間的な評価を受ける作品であるならば、この作品は世間の総体的な意見の表明であったはずである。問題は、この作品に対する、あるいはこの作品そのものが一方向からの視点しか持ち得ないことである。
 おそらく、物語の最後に出版されていた真紀の作品ではこの一方向性を克服しているのだろう。だからこそ世間的にも表層的でない形で受容されているという描写が伺えるのではないだろうか。

本作品の現代的意義


 本作品の現代的意義を考えるに、次の二つが主に挙げられる。(1)我々はコミュニケーションに失敗する。これは、単に私的言語使用に関する問題だけではない。そもそもコミュニケーションの土台が成立していない場合が存在する。しかし、こうしたコミュニケーションの幻想を理解した上でなおも我々はコミュニケーションを続けるしかない。なぜなら、他者理解の不可能性を前に自身を単独者として捉えることは独善的危険性を伴うためである。また、コミュニケーションの失敗を通じて得られるものが少なくともいくつかは存在するように思われるためである。そうした失敗の例はこうした映像作品や文学作品によって示され、我々はその失敗に学ぶことができるのではないだろうか。
 (2)他者存在の理解を放棄することで他者の道具化が進行する。前節の茂夫の自殺未遂に至る過程は、観衆にとってエンターテイメントである。もっと言えば、この物語に描かれている大衆が知る一連の事件、つまり動画投稿サイトにアップされて以降の流れは大きなドラマである。
 しかし、問題はその対象が一個人であり、それは同意なしで行われた個人のエンターテイメント化であることである。いわゆる「晒し行為」はSNS文化が発達した今日において喫緊の課題であると言える。
 茂夫と美和子、真紀と菜子を襲う好奇の視線は、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(*2)の最終盤にミスターサヴェッジに向けられる視線と重なる。そして、こうした覗き見行為はその行為主体からすれば一時的な退屈凌ぎにすぎない。しかし、被見者はそうではない。ここにも非対称的なディスコミュニケーションが存在していると考えられる。
 そして、こうした他者の道具化が道徳的な危険性を持っていることをカントは示している。すなわち、道徳の基本的な要諦として、他者を目的自体として扱い、決して手段として扱わぬようにせよ。

むすび

 さて、むすびではギアチェンジして崩した文体で感想等を雑に書き殴りたい。
 まず、作品全体の感想だが、正直賛否が分かれるのではないかと思った。と言うのも、コメディチックでもありサスペンス風でもあり、またヒューマンドラマっぽくもあると言う非常に混乱した印象を与えかねないからだ。
 個人的にはこうしたギアチェンジは楽しめた。類似の作風を上げるのは難しいが、緊張と弛緩のバランスは伊坂幸太郎の作品などに見られるのでは?と愚考してみる。
 ただ、私見として、やや納得がいかないのは物語の結末。なんとなく丸く収まった感じを出しているが、いやー、結局炎上騒動とかで盛り上がってたやつらには何もないし、なんとなくモヤッとして終わった。ま、この点に関してはむしろモヤッとして終わるくらいがリアルでいいんですけどね。これで逆に炎上させてた人とか茂夫の写真勝手に撮ってネットにアップしてたやつとかに不可思議な力で天誅とかあってもいやいやいやってなるし。
 作品の細々した点について言えば、茂夫の幻覚(せん妄症状?)のハサミムシは虫嫌いとしてはきつかったわ。特に初登場のシーンで顔とか這い回るところね。
 若田夫妻の子供の死因はなんだったんだろうか?子供の死から精神的な症状が出てるっぽいし、なにかしらトラウマ的な死因だとは推測できるが。小説版読んだらわかるのだろうか?
 大高洋子さんの演技が素晴らしい。最初、と言うか真紀視点では完全にヤバいオバさん。別視点では普通に精一杯生きている初老の女性。ほとんど同じ演技しているはずなのにあの微妙な差異はどうやって生み出しているのだろうか。不思議。印象的なセリフとしては「私たち正しく生きてるよね。」
 凄まじく枝葉末節だが、真紀の担当になった若い編集者の関西弁(?)が独特。なんか聞いててクセになる喋り方。

注・参考文献等

注1:本作品の現代的意義において中心的ではないために省いた部分ではあるが、夫婦間のディスコミュニケーションが示されている。この冒頭のシーンでは裕一は真紀の言葉を聞いていたにも関わらず(止むを得なかったとは言え)意図的に無視している。現代的なジェンダー規範を本作品から読み取ることも十分に可能であると思われる。こうした結婚や家族論についての文学的研究は泉谷(2021)(*3)が詳しい。
注2:トマス・ネーゲルの有名な思考実験として、「コウモリであるとはどう言うことか」(*4)というものがある。これは、正確には心の哲学あるいは心理学の領分だが、他者の知覚する世界をどのように認識できるかと言う問いの一例としてここに記した。
注3:沢庵和尚の説話とは、体験の重要性を説明したもので、空腹を満たすためにいくら食べ物の説明をしても意味がないと言うものである。真理の獲得(空腹を満たす)には直接の体験(食事)が重要と言うものだが、ここでは相手の言い分を理解する(正しくコミュニケーションを取る)ためには相手の体験が必要であると言う点で、そこに不可能性があると考える。

*1 天野千尋監督・脚本, 2019, 『ミセス・ノイズィ』
*2 Aldous Huxley, 1932, BRAVE NEW WORLD. (=大森望訳, 2017, 『すばらしい新世界』 ハヤカワ文庫)
*3 泉谷舜, 2021, 『結婚の結節点—現代女性文学と中途的ジェンダー分析—』 和泉選書
*4 Nagel, Thomas, 1974, "What is it like to be a bat?" The Philosophical Review LXXXIII, 4:435-50.(=永井均訳, 1989, 『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房)


 

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