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「おっさん」と「トークン」という存在

「ダーバーシティ(多様性)」が大切だという考え方は、日本でもとても一般的になってきました。

企業では、ダイバーシティ推進室のようなものがつくられ、管理職や取締役の中にどの程度の割合で、女性がいるか?ということが指標にもなっています。それ自体は勿論、悪いことではないし、数年前に比べれば、前進しているようにも見えます。

私自身もかつて、企業の内外で「ダイバーシティが大切です」という声を発する立場にいました。当時、「お台場にある、ダイバーシティーですか?」と本気で返されたこともありましたので、この単語が一般的になったことには感慨深いものもあります。

例えば、日本の権威のあるメディアが毎年「ダイバーシティ推進企業ランキング」を発表し、表彰なども行われています。でも、残念なことに、日本のジェンダーギャップ指数は、低迷を続けるばかりです。

また、ダイバーシティを進める本来の目的である、実質的な社会の変化はどの程度進んでいるのかはとても重要なポイントです。

この分野は、私の興味のあるところでもあり、時にカンファレンスに招かれたり、企業や団体の研修なども行うことがあります。私自身が勉強会に参加することもあります。でも、一時期、何かしっくり来ないものがあって、しばらく意識的にこの活動から遠ざかったいたことがあります。

そして、ここのところ、その理由が、少しずつ、自分の中でわかってきたように思っています。(まだ、完全に霧が晴れた訳ではありませんが)

理由の説明の前にですが、「正しい」という物差し自体は個人の選択です。だから、これから説明する「おっさん」や「トークン」になることが、「悪い」というつもりはありません。ここで言いたいのは、「ダイバーシティを推進する」という本来の目的において、という視点で考えることを前置きしておきたいと思います。

気づきのきっかけは、グーグルのアジア・パシフィックで人事を担当されていたピョートル・フェリークス・グジバチ氏の記事。そして、上野千鶴子先生の別の記事です。

ピョートルさんが使っていた2つの単語。それが、「おっさん」と「トークン」です。言葉は、ピョートルさんの記事からのものですが、私の解釈を加筆します。

まず、「おっさん」とは。ダイバーシティの文脈での定義は、「概ね、40代以上で、肩書きや過去の成功体験を重要視し、仕事そのものの目的よりは、その仕事でいかに上へいくか?の戦略を考え、成果は実際にその椅子に座ることだと思っている人=おっさん」。この場合、生物学的なジェンダーは関係ありませんので、女性でも「おっさん」になり得ます。反対に、40代以上の男性であっても、肩書、過去、成功や失敗の経験などにとらわれない、リベラルで、イノベーティブ、仕事そのものを楽しめる人たちは、何歳であっても「おっさん」では、ありません。

もう一つは、「トークン」。この英単語は、日本語に直し難いのですが、「証拠」「印」。ちょっと意訳して、「アリバイ」と表現したら、わかりやすいかもしれません。例えば、アメリカ映画などで、アフリカ系の人たちが出てきて「正義の味方の良い相棒」として、表現されている場合などは、このトークンです。「この映画は、ダイバーシティに配慮して、ちゃんと制作されていますよ」、という「証(あかし)」のように使われます。企業のサイトやパンフレットに、女性役員やワーキングマザーが「ダイバーシティ推進」の看板のように前面に登場するのも、このトークンです。

日本企業において、男性中心の文化を持つところで多くみられる傾向として、いまだに「おっさん」が決裁権限者で、人事も決めていること。つまり、社内で評価されるためには、この「おっさん」の価値観の範囲内にいて、その物差しで認められなければなりません。この状況は、以前に比べて、改善されているでしょうか?

昨今、管理職や役員など経営層、社外取締役に名前を連ねる女性が増えました。その内訳を見てみると、「おっさんに認められるように、文句を言わずに、上手く振る舞える人」が多いことに気がつきます。「おっさんを上手に操るのができる女の知恵」であり、「声なんて上げずに、うまく立ち回らなくちゃダメよ」という後輩へのアドバイスは案外と多いのです。

トークンになっているような女性たちの中にも、本当は自分が持っている違う意見を抑圧することを良いこととは思っていない…と信じたいです。でも、自分が変だなと思っても、おっさんの意向の実現を優先させてきたから、今の地位に付けた…という現実もあるかもしれません。

周囲と軋轢を生まないように、振る舞っているうちに、いつの間にか、既存の構造を再生産し続ける存在に自分自身がなっている。そんな「トークン」に、自分自身がなっているということに、どれだけ気づいているのか?と思います。

そして、いつの間にか、ダイバーシティを本気で進めようとは思っていない、「おっさん」と同じカテゴリーに、自分自身が分類されていることにならないで欲しいのです。

真のダイバーシティを進めるには、第一段階として、まずはマイノリティの立場にいる人が意思決定が出来るポジションになることは、とても大切なことです。正しいからと言って、おっさんと対立ばかりしていても、ダメかもしれません。

でも、今までの構造が、どこかでジワリでも、ガラリでも、とにかくどこかで痛みも伴って変わらない限り、本当の意味での「ダイバーシティ」によるイノベーションは起こらないのでは無いかと思うのです。「おっさんに認められることを目指していたり、喜んでいたりしていてはダメだ」ということです。

ある企業の人事担当役員で、キャリアの研究者でもある方が、「元々、この組織をよくしたいという熱い思いで、この役職についた。でも、高い役職というのは、毒を持っていることに気がついた。給料も高くなるし、みんなが自分の言うことをきいてくれるので、いつの頃からか、”この地位を手放したく無い、1日でも長く座っていたい”と考える自分になりかけていた。トップに嫌われて、ここから追われないようにと発言内容に気をつけるようになった自分がいた。でも、それでは自分自身が仕事をしている意味がないと思った。それで、思い切って、給料の半分を寄付をすることにした。そうしたら、自分が自由になって、言いたいことを言い、やりたいことができるようになった。その結果、今一緒に仕事をしているトップが、時に耳の痛いことをいう自分でも認めてくれる素晴らしいリーダーだということに気づけたし、組織の変革にも繋がって、良い結果になった。」と言っていたことも思い出します。こんなケースは、まだ珍しいと思いますが、どんなに真摯な志があっても、上に行くということは、誘惑も孕んでいるということなのだと思います。

女性の起業家(雇われではなく、最高意思決定者になること)が、イノベーションのキーになるということも、こういう背景があるからだと思います。



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