見出し画像

「ひまわり」をとおしてのぞく世界の姿

頭の片隅でずっと気になっているニュース

2022年の10月にこんなニュースを知りました。

ロンドンのナショナル・ギャラリーに保管展示されているゴッホのひまわりの作品に環境活動家がトマトスープをぶちまけるという事件。このニュースのことが、ボクの頭の片隅にずっと引っかかっている。どうしてなんだろう?

ネットのニュースを検索してみると、この話題は、その後、様々な反響を呼んだり、更なる過激な環境活動家の人たちに同様な行動をとらせる呼び水にもなったりしたようだ。

この東洋経済ONLINEの記事には、日本人の想像力の薄さや学ぶ力の乏しさについて指摘がされている。これを読んだボクは、ますます名画にトマトスープを投げつけることの意味を自分自身理解できずにいることに、悶々とした思いが広がった。

そういえば、こんなボクでもゴッホのひまわりの絵を観たことがあった。東京のSOMPO美術館のコレクション。20年ほど前だったか随分と前に新宿駅の高速バスの待合時間、近くにある美術館があることを知り、ふらりと立ち寄ったのだ。

当時のボクは、ひまわりという作品は聞いたことがあったが、まさか本物を見られるなんて思ってもおらず、展示されていた作品を目の前にして、ただただ度肝を抜かれたことだけを覚えている(100.5㎝×76.5㎝と作品サイズが、ボクの予想を越えて大きかったという印象なんだけれど……)。

正直、絵を観て感動したとか、感激したとか、世界観が変わったとか、全く持ってボクにはなく、ただただ15本のひまわりを眺めて「ほぇ〜」と眺めていただけであった。

今になって思い返すと、芸術家という人は生涯をかけて、絵の具に命をこめて、ひたすらに筆を走らせ続けた、という執念の凄さはすごいなぁ、と思える。ただし、ボクの理解はその程度の浅い、極々浅い理解でしかないのである。

それはもう、一つのアート作品として理解していいのでは?

そんなボクが思うに、トマトスープを投げつけられたゴッホのひまわりは、アート作品として新たな局面を迎えたのではないだろうか?

ゴッホは、一連のひまわりシリーズの作品に絵筆を走らせている瞬間、瞬間にどんな想いを込めていたのだろうか?SOMPO美術館に展示されている作品は、5作目のひまわりであり、友人のゴーギャンともそれなりに仲が良かった時期に描かれていたらしい。

はたして彼は、そのひまわりに強い希望を描こうとしていたのだろうか?それとも深い絶望の中に一時の安らぎと淡い光を感じていたのだろうか?そこはボクにはわからない。

けれど、ゴッホが描いたひまわりの世界は、百有余年の時を経て、トマトースプをぶちまけれられた。もちろん環境活動家の人達の思いは、こんなものなのかもしれない。

「そんな涼しい場所で絵を観ている暇があったら、お前たち、自分の足元をちゃんと見ろよ。宇宙船・地球号の船内は今、絵の具だって溶けちゃうくらいヒートアップ状態なんだぜ。」

あくまでもこれはボクの憶測でしかないけれど、そんな風に、彼女達は悲痛な想いを持ってトマトスープを名画と言われる作品にぶちまけたのかもしれない。もしそうだとしたならば、この事件をボクは、ひまわりという作品にトマトスープをぶちまけた行為が加味された”現代アート作品”と呼べるのではないか!?と思う。

息子の名前に込めた想い

2023年が明けて、冬の麗らかな日の光を仰ぎ見る。卯年。東日本大震災から12年が経過する。あの日、息子をお腹に宿した妻は、実家に帰っていたボクの帰りを待ち、自宅で一人で過ごしていた。

ボクが実家から戻ると、妻は元気そうにしていたけれど、どこか精神的にも不安定にもなっていたのかもしれない。1週間後に妻は破水をして、予定日よりも3週ほど早くに息子はこの世に生まれることとなった。

2,500gに満たずに生まれた息子は、一カ月余りほど母親と一緒に病院で過ごした。息子と妻の様子を見るために病院に通うボクが、休憩によく使った談話ルームがあり、その部屋の名前は「ひまわり」と名付けられていた。

そんなこともあり、息子の名前を決めた時に、「向日葵」という漢字から一文字をもらい、息子に名前にあてはめた。いつどんな時もお日様を向いて、元気にたくましく成長して欲しいという願いを込めて。

答えは、まだ見つからない。だからこそ忘れないでおこう。

ユーラシア大陸の西側では、依然として戦禍がおさまらない。爆撃によって破壊された発電所は、その地に住む人達の「暖」をはじめ衣食住を十分に与えることができない様相が続いている。

宇宙船・地球号の船内は、こうした手段でクールダウンさせることが、果たして正しいと言えるのであろうか。ボクにはわからない。ただ、現地にいる人のことを想い僅かばかりであるけれど、部屋の照明をつけず、灯油ヒーターに切った状態で、ボクはこの文章を書いている。

平和とは、個人であれ、集団であれ、国同士であれ、直接的な争いのない緊張状態のことである。緩やかな平和の姿もあり、緊迫した平和の姿もある。19世紀後半に孤独を抱えた青年は、ボク達に「ひまわり」という希望を残してくれた。

そして21世紀にそのメッセージを受け取った女性達は、哀しみを抱えながら、その絵にトマトスープをかける活動によって、現代アートをつくりあげた。でもその作品は、まだ完成していないのだと思う。

この作品を完成させるのは、宇宙船・地球号に乗船しているボク達ひとりひとりなんじゃないかなと思う。そんなボクは、「ひまわり」という作品の意味をあらためて理解したいと思うし、もうトマトスープのかかる心配がない「ひまわり」の作品を観るために、いつか堂々と足を運んでみたいとも想う。

(了)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?