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短編小説・シゾフレニア

17歳

私は高校2年生だった。白金にある80年以上の伝統を誇る学校に中学生の時に滑り止めで入った。300人中200番くらいで入学してそのままエスカレーター式で高校まで上がった。
 ただそこで些細な変更点が学校側で行われて私の人生が少し変わるコトになった。
 私の学年から受験をする人は1単位を取らないことでエスカレーター式に短大に進学できなくなった。私は当時「単位」ということについてよく理解していなかった。母親に相談したかったが、母親を困らせたくなかった。兄も美術系の高校に無事に進学できており母親はPTAの役員をやり他のお母さま方とのお茶や会食を心から楽しんでいたから。
母は成城に3000坪の土地を持つお屋敷の実家で生まれて浮世離れしたお嬢様と周りから言われていた。子沢山家庭で5人の姉兄妹たちに恵まれていた。母と兄と私たちはその母の実家で暮らしていた。父が海外で会社を経営していたからだった。
 滑り止めで入った学校に不満を持ちながらも中学卒業生代表を取るくらいに勉強していて高校では勉強はもううんざりだった。中学時代はテスト期間中、毎日殆ど寝ずに朝風呂に入って勉強していて兄があっちゃん、もう死んじゃうから寝た方が良いよと心配して風呂場をノックしてきた。
 もう勉強したくないと思うくらいに勉強していたので当然エスカレーター式で短大に上がれば良いものの、何故か友人の「受験するんだから1単位取らないって皆言っているよ。」という言葉に流されてそのまま短大までのエスカレーター式の権利を放棄する申請をしてしまった。
 さてそうなったら受験だ、この時私はお付き合いしている男性が居た。男性というより男子だが。彼は私を好きだったのか今でも良く分からない。私は彼の事は好きではなかった。

高校になって初めて参加したコンパに彼が居て彼は違う女子の第一印象が良かったみたいだが、何故か私を自宅に送ることになり私は嫌々2人の男子に成城の家まで送られていた。できるだけ分かりにくい12分間の道をダラダラと歩いた。
 後日彼から電話があり自宅の前に居るから来てほしいと言われた。渋々行くとキスされた。ファーストキスだった。舌を入れられた。凄く気持ち悪かったが、見栄っ張りな私は平気なふりをした。初めての経験が凄く悲しかった。そうだ、私のファーストキスはお手伝いさんにされたんだ。八歳の頃、真っ赤な口紅を塗ったお手伝いさんが、あっちゃんが可愛いと母の前で急にしてくれた。それが初めてだ。それも凄くショックな出来事だった。

玄関から15メートルくらい離れた通りで舌を入れられキスされて断り切れず彼と付き合うことになった。
 好きになろうと努力したがどうしても慣れなくてフラれようとあれを買ってこれをしてと随分我儘を言った。彼は私と結婚すると言ってお揃いのプラチナのリングを購入してくれた。リングの裏側にはお互いの名前を彫り合った。洋服もお揃いで買ってくれた。アメ横のお店でダンガリーシャツは物が見るだけで良かったが、プライドの高い私は凄く嫌だった。唯一救いがあったのが彼は清潔感があり、体臭まで気にしてダンヒルの香水までつけていてそれが良い香りだったこと。

デートでディズニーランドへ行った。ディズニーランドはびっくりするくらい高校生ら良い不純でないデートで楽しかった。

「ディズニーランドに付き合っているのにデートで行くと別れるんだって。」

そんな話を嬉しそうにしていた。その後が凄く嫌だった。眩暈がした。高校の友人たちとお泊り会をする日にそのままホテルニューオータニの最上階のスイーツに誘われた。お人形の私は彼からの誘いを断れなかった。翌日お金が足りずにチェックアウトで3万円私が母のお財布から出した。順番を覚えていないが友人たちは私が深夜になってもお泊り会に来ないので心配になって警察に通報したほうが良いのではと話し合っていたらしい。申し訳なく思っていたが、私はもうここからあれよあれよという間に自分の望んだ人生と違う方向へ流されていった。
 彼は一つ年上で私は当然受験するので彼の自宅でいつものごとく頑張って勉強していたた。が、彼の度重なる要望でいつも中断された。

「グラビアアイドルが来ていたキャミソールが凄く可愛くてあっちゃんに着て欲しくて買ってきた。」

と言われて私は彼の前ではニヤニヤしたお人形のようになっていた。もうこのまま流されて結婚するんだと思っていた。それほどまでに私は小さい頃から自分の意思が無くて、母や父に守られて大切に育てられていたのだと今は思う。
 母が「娘は嫌がっているんだと思います。無理に連れ出すのはやめてください。」

と広い玄関先で彼に向って言ってくれた。私は心の中でガッツポーズをした。もっと言って!もっと言って!別れたい!でもお嬢様の母の言葉は彼には何も響かなかったようで。状況が半年は続いた。私の体はボロボロになっていて母と病院へも行った。
そんな中彼が留学すると言い出した。彼は悪い人ではない。ただ私は学生で成績も下がり、彼に依存しきっていて結婚するのではなかったのかと急に不安になった。彼はカナダに留学することになった。

 そして私に新しい出会いがあった。 

新しい出会いは英君だった。兄がチャラいと言っていたが、やっと自分にふさわしい高校生らしいボーイフレンドが出来たと思った。ご両親に赤坂プリンスホテルでお会いしてご挨拶させていただいた。エレベーターの中で弁護士のケントギルバートが居た。英君は全然チャラくはない。オープンカーにも乗っておらずに関西から有名高校に受験して入学して中学では生徒会長をしていたそうだ。中学生当時お付き合いしていた彼女の写真も大切そうに見せてくれた。可愛らしい丸顔の女の子だった。木造の学生寮に住んでいた。私が望んでいた関係性はこれだ。高校生らしい付き合い。身体に触れられることもなかった。彼のご両親も父と同じく海外で会社を経営しているそうで

「何かあったら言ってくださいね。」

とお声かけいただいた。私はいつになくウキウキしていた。

二股ということになるのか、私は卒倒しそうになった。母と兄がどうせ相手はカナダに居るんだから、分からないんだから言わなくて良いよと驚くことを言いだしたが、国際電話をかけて勇気を出して、今新しく好きな人が出来たのと彼に伝えた。どんな人か気になると言われて共通の友人とダブルデートをするコトになった。そういう所が凄く気持ち悪くて嫌だったけど、一生懸命に彼なりに私に付き合ってくれていたと思ったので承諾した。

文化祭に来て貰ったり、英君との楽しいひと時の時間を過ごせたが、ただ私のメンタルはもう崩壊しつつあった。別れた前の彼に以前に何件も何件ものホテルに連れまわされていて、きっと合意の上だったと言われてしまうけど、私は凄く嫌だったの。高校生なのに・・・。今でも忘れられない屈辱の時間。説明もしたくない。写真も撮られた。抵抗しなかったら合意の上というのかな。

英君も東京に出てきたばかりなのか、見た目は確かにチャラい感じはしたけど、心は優しいと思った。私は好きだった。彼の事。今でも凄くいい思い出。私の大切な高校時代の光り輝く思い出。自宅に遊びに来た英君が応接間のカーテンに隠れて居なくなってしまって、慌てる私に兄が飽きれかえるシーン。笑ってしまう。英君がお腹が減ったので焼きおにぎり出したねと兄と笑って思い出していた。

最初に言った人生が少し変わったコト、短大にエスカレーター式で上がれなくなったことが急に間近に迫った。慌てて休学したらいいのかとか、色々考えた。決断ということがこの頃から苦手だった。父と母に大切に育てられすぎて人生を少し甘く見ているのかもしれない。真剣に考えていない訳ではない。17歳の馬鹿みたいな私には誰にも相談できなかった。たったこれだけの大したことないこと。私にはまるで青天の霹靂だった。

自分で退学届けを書いて高校を中退した。 

19歳

高校を中退して直ぐに働こうかと思ったが家族や親せき一同が大学を卒業しているので、申し訳なく思い、大検を受けた。高3の春に中退したので残りの単位が少なくて簿記と国語とその他の4教科だけで直ぐに合格した。

玄関に合格証を張り出して喜んだが、急に高校中退者というレッテルが自身に突き刺さりお腹の下の方が苦しくなった。自宅で朝早く起きてランニングをしたり料理をしていたりしていたが、日中は外に出られなくなった。家族に構って欲しくて、ひとり言を壁に向かって話したり、奇声をわざとあげたり、兄を軽く叩くそぶりをした。兄は酷く驚いて、あっちゃんに叩かれたと半分泣いていた。

家族と話し合うことが出来ずに自分で髪の毛をハサミで切った。この頃から本当におかしくなってきて、ある日祖父のハイヤーに乗せられて精神科に連れて行かれた。父の高校の同級生が精神科医をやっているそうで、恐らくその系列の病院の医師に診察して貰ったようだった。前日祖母が夢に出てきて絶対に言っちゃダメと言っていたので必死で行くのを抵抗したが、上着がめくれてお腹が半分出るくらいに引きずられるように連れて行かれて気付いたら医師が目の前にいた。思わずかけている眼鏡を取り白衣をはぎ取りダメという意識を消滅させて自分が着ていた。スローモーションのように周りに人が集まり睡眠薬を注射された。

意識があった時は和式トイレしかないオレンジ色の床の鉄格子の部屋の閉鎖病棟に居た。後から父に聴いたが、私が医師を殴ったとのことだった。そんなつもりはなかったがもう遅い。ただ鉄格子の部屋の中の私は驚く程冷静だった。恐らく二週間程大人しくしていれば出られる筈と思った。だって何も悪いことはしていないから。大人しく鉄格子の下から配膳されるご飯を食べた。味は覚えていない。美味しくもなく不味くも無かった。鉄格子の部屋は24時間監視カメラが。

思ったより早く鉄格子の部屋から出られた。大勢の色々な年齢の女性たちが畳の部屋で雑魚寝していた。病院の職員の方たちと仲良くなり職員の部屋に入れて貰い、鉄格子の部屋の監視カメラを見せて貰った。

「へー。こんな感じで撮影されているんですね。観察記録とかつけるんですか?」

と聞きながら、ふと思った。

「多分、動物の飼育記録みたいになっちゃっているからどんな風に書いたとか言えないですよね。」

職員が苦笑いして頷いていた。

 毎日畳の大部屋に居る色々な年齢の女性たちとご飯を食べてごろ寝するだけの生活。途中眠くなり、話しながら寝てしまったら、てんかん発作を起こしたかと思われて酸素を吸入された。居眠りには気を付けなくてはと思って、もう半年くらいいた気持ちになった。たったの1ヶ月しかいなかったようだ。母と兄の面会がたったの一回だったので。きっとそうだろうと思った。来てくれるだけでマシだ。久しぶりの家族の会話は前のそれと同じだった。

 退院してからが地獄だった。毎日50錠以上もの薬を飲まされていた。今になって主治医に聞くと、昔は良い薬が無かったからとのことだった。ふざけるなだ。副作用が酷くて目線が上に固定されたまま動かなくなり、心配されながら行った小学校の同窓会は同級生が一緒に付き添ってくれて電車の切符を購入してくれた。このまま私は精神病院にずっと通院して50錠のも薬を飲み続けなくてはいけないのか。自問した。答えはノーだ。その内に病院の最寄り駅のゴミ箱に薬を捨てて帰っていた。この時の私の判断は正直言って合っていたのか間違えていたのかどう考えても分からない。今わかるのが薬の数は明らかに異常に多かったし、質も悪かった。 

決意を新たに通信制の短大に入学した。父の仕事を秘書として手伝うのだと思い、精神的に負担がかかる受験は諦めた。

 この頃私は「統合失調症」という病気を患っていたらしい。当人は知らなかった。

 短大は中間くらいの成績の大学を不合格だった生徒たちが入学するレベルだったので、単位は楽に取れた。全62単位を1年も経たずに45単位取っていた。ただ大検でも受けた教科簿記のレポート課題の提出が迫っていて、ここでもまた私は「単位」という物に気持ちを脅かされていた。「単位は落としたら絶対にダメ」と勘違いしていた。友人からの誘いで分からなければ一緒にやろうよと言われるもお腹のあたりがまた重く痛くなり、

「大丈夫。絶対に自分でレポート課題作成するから。」

と断ってしまう。3月だった。もう少しで陽気な桜の季節だった。高校を中退したのも3月だった。ああ、私は3月におかしくなるようだ。植木屋さんのトラックにプレゼントですと自分の一番のお気に入りの皮のクレージュの鞄を置いて何かにお役立てくださいという自分は明らかにおかしかった。グリーンの鮮やかなダッフルコートを見に纏い成城駅から電車に乗り自分と同じ名前の駅で降りて交番の前で小雨の中、大の字に道路で寝転ぶ。警察官たちは見て見ぬふりだった。昼間なので仕方がない。もしここで声をかけてくれたのなら、私の人生の歯車はまたズレずに済んだのだろう。駅のホームまで行き、フラフラしていたら、老婆が

「お嬢さん大丈夫?まさか飛び降りとかじゃないわよね。」

と声をかけてくれた。ここで私の頭はショートする。そうか私はホームに飛び降りるのだ。

顔はお棺に入れた時に両親や兄が悲しまないように傷つけないようにしよう。そう思い、身体を丸めて向かってくる電車をめがけてホームに飛び降りた。

  絵にかいたような閻魔様と子分が目の前に居た。

「私は地獄行きですか?」

思わず聞くと

「そうだ。地獄行きだ。」

と言われた。それもそうだな、自分は誰の為にも生きて居ないから。海外で困った人をフォローしていて皆から沢山のお礼の手紙が送られてきていた両親や情の厚い兄にも心配ばかりかけてしまった。でもそれは悔しい。死にきれない。口からついて出た。

「一ヶ月だけやり直させてくれませんか?それでもう一度地獄行きか判断していただけませんか?」

目が覚めたら救急車で運ばれる瞬間だった。ブーツを履いていたが、両足がグンニャリと変な方向へ曲がっていた。救急隊員の方が、「ブーツを切ります。いいですね?」

と大きな声で耳元に聞いてくる。

「嫌です。ブーツは父が買ってくれた大切な物なんです。」

「血が固まって剥がれなくなるので切らせていただきます。」

 気を失った。
 

20歳

事故の際、父は海外に居り商談中で母が必死であっちゃんが事故を起こしたから直ぐに帰ってきてと国際電話をかけても

「大事な商談だ。(家族を路頭に迷わせることはできないので)帰れない。俺が帰国したところであっちゃんの足は治るのか?」

と気丈に帰国を拒否したそうだ。父は本当に凄い。ただ母がどんなに心細かっだろうか。親族になんと薄情な父と思われたであろう。兄から後で聞いたが流石の父も精神的に少しおかしくなり蒸発しそうになっていたそうだ。

 手術は無事に終わり、私は晴れて両足切断の1種2級の重度障害者になった。幸いなことに足以外に障害はなく、母が手続きを終わらせてくれていて障害者年金も貰えるようになっていた。私もいつの間にか成人して20歳になっていた。

23歳

 23歳、統合失調症で両足義足の車いすユーザーになって毎日を過ごしていた。義足で歩くことはリハビリをやりながら諦めて車いすユーザーとしての今後を考えたいと思ったため、自分で資料を取り寄せて関東にある職業訓練校に入学した。入学する前に車の免許も取った。身体と精神の病気もあるので診断で入学は2年間待たされた。一般事務科に入学した。本当は電話応対科に入りたかったがどうして統合失調症の私は自分の意思でやりたい事が判断できないのだろう。やはり脆弱性が強いから自己責任という面で責任を取れないのだろうか。ブラインドタッチまではいかないが簡単なパソコン操作はできるようになった。

 寮生活だったが、私は今までに無い様な人生を送れた。お酒も飲んだし、煙草も吸った。セブンスターを2箱も吸って友人たちに吸い過ぎと止められていた。車いすバスケをして工賃をいただき充実していた。体育祭もありホームシックにかかるも毎日キラキラとした変化のある生活だった。車いすの操作も上手く出来るようになった。段差がある時は前輪を少し浮かせて進むのだ。統合失調症の薬は飲んでいたが、そんなことは忘れていた。ただ生理が1年も来ていなかった。 

27歳

 事故から7年経って訓練校の紹介で何とか損害保険会社の一般事務の契約社員の職が見つかった。15時に購買部にアイスクリームを皆で買いに行くようなリラックスした会社だった。仕事は短大の秘書コースで学んだ一般常識や敬語が役に立ったが、経験としてはまだまだ半人前だった。もっとパソコンのスキルを付けたいと思った。

エクセルの操作がやっとだと言った感じ。先輩社員に色々とご指導いただく。駅から徒歩9分の事務所まで通うのに夏は車いすでしょっちゅう37度の熱を出すようになり、休憩室で休ませて貰うようになり、心配した同僚がおにぎりを買って見に来てくれた。週5勤務が難しいのではとのことで週4.5日勤務に変更していただいた。他の会社との合併が決まり、いよいよ仕事が忙しくなり、統合失調症の影が出てきた。具合が悪くなり精神科に入院した。珍しい開放病棟だった。同僚たちがお見舞いに来てくれて涙が出るくらいに嬉しかった。偏見のない会社で上司も心配してくれていたが、統合失調症の前触れということで退職した。2年半の勤務だったが、自分なりに頑張ったつもりだった。 

その頃母の具合も良くなくて癌とのことだった。私は母を心配するどころか自分はどうしてこんなにいつも具合が悪いのかと当たる日もあった。母は穏やかにつるつるの赤ちゃんみたいなお肌をしながら亡くなった。私には悲しいという感情がまるで沸いてこなくて、自分でも異常かもしれないと不安に思った。主治医に相談しようとしたがしなかった。自己愛が強いのだろうか。内向的で興味が自分にしか向かわないのだろうか。兄にも相談できず、父は精一杯母の看病をしきって疲弊していて、私はまた1人だった。 

33歳

 損害保険会社に2年半勤務した後に暫くパソコンのスキルを磨く訓練をして念願のIT企業に勤めることが出来た。最初は総務事務課だったが、産休の方がいてアプリケーション課に空きが出来て配属の希望が通った。アルバイトだったが仕事は順調でいつの間にかシステムエンジニアに混ざり週五勤務をしていた。ただどんどん忙しくなりタイムプレッシャーや臨機応変な判断が居る場面が出てきて、頭の中が纏まらないことが多く判断が苦手な特性の自分は疲れが出始めていた。勤務しながら39歳の時に最後のチャンスと思い、転職活動をした。上司より社内ヘルプデスクのリーダーをやって欲しいと打診されていたが、アルバイトの身で何故そこまでと思い、恩義はあるが、転職を決めた。給与も2倍出すとのことだったが、あてには出来なかった。ただこの会社で勤めた6年半は入院も休職もせずに勤務出来て統合失調症の自分には大きな自信となった。 

40歳

 転職して2年目、同じ課の11歳年下の上司とお付き合いすることになった。プロジェクトで意気投合して最寄り駅も近くて一緒に飲んだりした。背が高くて180センチ近くあり面白くて歌が上手な優しい人だった。

「あっちゃんの思いに応えられなくてごめんね。」

と言われて追いすがらずに身を引いた。彼の事が大好きで迷惑を掛けたくなかったから。彼は会社も転職してしまった。いつか同じ沿線の駅でばったり会えるのではないかと信じていた。

「僕の事は嫌いになっても会社の事は嫌いにならないでください。」

と言って会社を辞めていて「前田あっちゃん」にかけてくれた発言だったことは数年後に気付いて、好きでいてくれたんだなとジンと来た。 

49歳

 10年勤務した製造業の会社を今年の3月末に自己都合で退職した。統合失調症だったのに主治医と上手くいかずに服薬を半年怠ったからだった。兄からも何度も言われた。

「あっちゃん、薬飲んでいる?ダメだよ。飲まないと。先生と話しているの?先生をかえたらどうかなあ。」

全く耳に入らず、夜寝られなくなり、毎週数時間の睡眠時間で仕事をしていた。新任の上司から、あなたならできますからと何度も職場の心理的安全性の向上を頼まれていて、自分の体の心配でなく同僚たちの心配をする日々だった。手話検定2級を取得して聴覚障害の同僚ともコミュニケーションを取る練習までしていた。薬を服用していればと後悔してももう遅かった。幻聴や幻覚は無かったが、聴覚過敏が酷くなり、同僚や上司がする人事や評価の話が果てしなく苦痛になった。新任の上司が無茶なおかしいことばかり言ってくるが、断れる体調では無くてそのまま引きずられるようにどんどん引き受けていて、精神も体も疲れ切っていた。

 平成5年の10月に休職をした。4月に蜂窩織炎になり9月に尿路感染と膀胱炎の疑いになり一刻でも早く入院したかった。ただ主治医と上手くいっていなくて連携も取れておらずで、友人たちにおかしな状態の自分を見せたくなく近寄らないで欲しくて普段言わないような酷い言葉のメールの送信をしていた。数人の友人からメールをブロックされて電話を着信拒否された。兄も同じくだった。あんなに優しい兄も信じられずに当たり散らし、私は自分がこうなったのは高齢の父の介護を兄に押し付けられたからだと言い張り、自宅を売却するの一点張りだった。

 3か月もの間、統合失調症で入院した。凄く綺麗な掃除の行き届いた病院だった。何度も私は何か罪を犯しましたかと何度も主治医に聞いては困らせた。被害妄想が極限状態だった。

 入院期間中で気持ちは落ち着き、友人も出来た。中学と高校で出来なかった女学生同士がするようなお箸が転がったら笑うような話を病院の食堂でしていた。幸せな時間だった。 

シゾフレニアとは統合失調症の事だが、状態が良い場合や落ち着いている場合は服薬をやめないこと。主治医とは対等のストレスのない関係で居るようにすること、前触れの段階で気づき休息すること、一番の極限状態の急性期には入らないようにすることが大切だと思う。急性期に何度も入るコトにより認知機能が明らかに低下する。考えが纏まらず判断が出来ないことの辛さを誰にも味わってほしくない。おかしいと思ったら迷わずに心療内科や精神科を受診して欲しい。後はもし仕事をしているのであれば休職する前に有給休暇を取りリフレッシュすること。家族や友達と遊ぶこと。何もしないことも良いと思う。負担を軽減して貰うこと。上司を信頼して辛いことを相談すること。どういう状態なのかを出来るだけ客観的に見られる訓練をするコト。一番大切なのは助けてくれる誰かに助けて貰うこと。差し伸べられた手をはらわないこと。

 17歳で発病し統合失調症歴30年以上の私だが、49歳の今の今まで誓って幸せだった。過去を歪んだ物として捉える症状が出てくる可能性があるが、出来るだけ事実は事実と捉えて、自分の想像を付与しないこと。

兄からも言われた。両親のありもしない悪口を言わないでくれ、過去あったコトは終わったコトだと。随分兄に辛い思いをさせた。

他には私は十分に頑張ったのだから休息する時間は与えて貰っても良いと思うようにすること。散財せずに貯金はきちんとしておくこと。 

2025年3月

  現在時間があり文章を書いている。原稿用紙28枚だが、自分の人生を纏める量としては丁度良い。長すぎず、短すぎず。あなたの人生はどんな物だったか。私と同じように文章に書くことを推薦する。物心ついた時から本を読むのが好きだったが、書くことはプレッシャーになり苦手だった私が28枚の原稿用紙にワードで文章を書いている不思議。ご縁をくださった機会に感謝だ。

サポートありがとうございます。