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背中を押すのではなく、さするという選択肢を

精神的な不調を抱えた人に対して、かけられがちな言葉。
「頑張らなくてもいい」
近頃、この言葉を使うことの難しさについて、よく考えています。

私自身、かつて適応障害だったとき、親からの「頑張らなくていいのよ」に、結構ふかぶかと傷を負った記憶があります。
その理由は、今のところよく分かっていません。

でも、テンプレ的な「頑張らなくていい」に痛ましい思いをしているのは、どうやら私だけではないらしい。

ちょっとこの辺りの整理を兼ねて、noteにしてみようかな、と思い立ちました。

頑張れなくなる理由

まず、私なりに「どうして頑張れなくなるの?」という話をしてよいですか。

何かを頑張るとき。
ベターな状態の一つとして、「各々の人にとっての『本来そうである』ような形で、身体と心が上手いこと連携プレーを取りつつ機能していること」が挙げられます。

でも、これが実は難しい。本来あるべき姿なんて、自分ですらよく分かっていないことが、普通だからです。
なのに、どうにかそれらしい形を保ちながら、生きている。形を崩さないようにしながら、会社や学校に行き、同僚や友人と会話する。ふとした時に崩れそうになっても、持ち前のバランス感覚で、何とか持ち直す。

平常時ですら曲芸みたいなことをやるのが、私たちの当たり前になっているのだと思います。

ところが心の不調を患うと、曲芸が立ち行かなくなります。
それも大抵、少しずつではなく、ある日突然立ち行かなくなるんです。

例えば「会社に行かなきゃ」と思うのに、身体がベッドから離れない、という状態。
昨日まで起きられていたのに何故?と思うかもしれません。

ここで思い出してほしいのが、「私たちは曲芸をやっている」ということ。
例えば綱渡りなら、重心を見極める・周りに気をとられないようにする・片足を前に進める、といった複数の(心身の)動きを同時にします。
もし、これらの動きのうち一つでも欠けた状態がしばらく続くとどうなるのか。その先を想像することは難くありません。

そしてこの曲芸は、イベント的に発生するものではなく、日々の暮らしの中で当たり前に求められがちなのです。

多分、これが怖い。
曲芸じみたことを当然に要求されると、その曲芸の難しさを自覚したり、動きのメンテナンスに目を向けたりする機会が無くなります。

そうしているうちに、気づけば曲芸をするための土台がスカスカになっているそんな自分に気付き、
「もう曲芸できない」「もう頑張れない」
こう口にするのではないでしょうか。

「頑張らなくてもいい」という言葉に救われる人

ここまでお話してきて、勘の良い方は気付かれたかもしれません。
今回の場合、「頑張らない人」ではなく「頑張れない人」の方が、言葉の使い方としてはきっと精確だと思うのです。
自らの意思で決めることと、意識せずとも自然とそうなることの間には、大きな違いがありそうな、そんな感覚。

一方で、それでもなお「頑張らなくていいよ」という言葉に救われる人も、います。

おそらく、彼ら彼女らの多くは、そこまでの過程がどうであろうと、最終的には自ら「頑張らない」という選択をした、もしくは受け入れた人たち、なのではないでしょうか。
今は、歯を食いしばるよりも大切なことがある。ゆっくり休みたい。余白の時間で、静かに自分を見つめ直したい。
きっと理由は様々です。

とは言え、アクセルを踏む足を緩めることに不安を感じることもあります。
特に、これまでずっとアクセル全開で走ってきた方にとって、スピードを緩めることは、全く未知の領域。
そこに「頑張らなくていいよ」と言われれば、安心感を憶えます。
どうやら自分の選択は間違ってないぞ、と気付くのです。

「頑張らなくてもいい」という言葉にしんどくなる人

では、もしも一切の選択権無く、突如頑張れない状態になったとして、それでも私たちは最初から「頑張らなくていいよ」という言葉を喜べるのでしょうか。

「○○で(が)いいよ」という言葉が効力を発揮するとき。
それは、語りかける相手がなにかを決断したとして、その背中を押したいときだと思っています。
だから、頑張らないと決めた人にとっては「頑張らなくていいよ」の言葉が、推進力になることも、あったり、なかったり。

でも、頑張らないという決断をしていない・できない人は、少し事情が異なります。
例えば満身創痍で倒れて、起き上がる気力もないけど、その状況を受け入れたくない人。

道半ばで倒れた。
続けたい仕事があった。
受けたい授業があった。
行きたい場所があった。
もっと、頑張りたかった。

そんな「立ち上がりたい人たち」の背中を前に押すつもりで、「頑張らなくてもいいよ」と口にして、
結果その背中を地面に叩き付けていた、なんてことはないでしょうか。

未だに私は、「こうすることが正解である」というものを持たないままです。
再起したい人たちの背中を前にしたとき、決して蔑ろにできない、大きな分岐点に立たされていることを感じ、結構な無力感に苛まれつつ、立ちすくむ、そんな毎日。

背中を押すのではなく、さするという選択肢を

それでも何かを選ばねばならない。
であれば、私は「その人自身が、自分のことを大切にしている・されている」と心から感じることができる方向に(かなり試行錯誤しながら)進むのだろうと思います。

「頑張らない」という決断で得られる、安息の地。
熱量を持って進み続けることで獲得できる、充足感。
渇望するものは、その人によって全く異なります。

だからこそ「頑張れない」というパーツにピタリとはまるのは「頑張らなくて良いよ」ではなくて「頑張ってきたんですね」なこともある。
そんな可能性に、スポットライトを当てる必要があるのではないでしょうか。

背中を押すために出したその手で、代わりに背中をさすることもできるし、そのまま手を引っ込めて、ただ横にいることだってできると思うんです。

差し出したその手を、あなたなら、どうしますか。



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