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エッセイを書きたくない頭、書いてしまう手

最近、エッセイを書きたいのに書きたくない、という、妙なジレンマに陥っている。

なんだか自分にとって重要な価値観の話につながりそうなので、ちょっとこのモヤモヤを深掘りしてみようと思う。
オチがない話になるかもしれませんが、あしからず。

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実は、「書きたくない」の欲求については、正体をぼんやりと把握している。要は、もっと世間様の役に立つものを書きたいのだ。

わたしには、割と現実主義者的なところがある。なので、エッセイは自己満足の一つ(ただし、心の健康には必要不可欠な)だと、noteを始めたころから思っていた。

お金を得たり、何らかの価値を享受するには、自分の頭の中を吐き出すだけだと、あと一歩足りないのだ。材料を一般大衆が求める形に加工して初めて、それは安定的な価値を持つ。

エッセイを書くときに頼りにするのは、自分の思想であり感性だ。「わたし」という人間を知ってもらうには、これ以上の表現方法はない。
けれど、それは「一般大衆向けの文章」の、まったく反対側にある。

ここまで書いて、気づいたことがある。
わたしは「一般大衆」の目が、どうにも気になっているのかもしれない。

今年の頭から、二拠点生活を始めた。
4月からは、かねてから気になっていた業界で、働くことになる。

これらの変化に伴い、
①人間関係
②生活を送る環境
という、2つの大きな要素が、わたしの周りで大きくうねり始めている。

今、自分の身に起こっている変化は、どれもわたしが意図して起こした変化だ。
でも、望むとおりに変化するということは、ときに自分だけの道を突き進むことと同じ意味を持つ。それは事前に想像するよりも、けっこう孤独で過酷だ。

仮に、わたしが文章を書くことで、精神的・社会的なバランスを取っているのだとしたら。
大衆受けする文章を書き、なんとか「大人数の中の一人の自分」としてのアイデンティティをつなぎとめようとしているのかもしれない。

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さて、話は戻り「エッセイを書きたいのに書きたくない」という、わたしのジレンマについてだ。

エッセイを書くのが嫌じゃ嫌じゃと頭の中で思いながらも、実際のところ、わたしはこうして考えたことを吐き出している。
日々の暮らしの中で個人的な営みを加速させつつ、文章の世界でも社会性もへったくれもない話を、つらつらと書いているのだ。

もしかするとわたしは、ここらで「文章とどのように生きていくか」を決めたほうが良いのかもしれない。

エッセイを書き散らかす。それもいいだろう。
SEO対策を勉強して、多くの人に読まれる記事を書く。大いにアリだ。

問題は、どこで何を、どんな意思を持って書くか。
たとえ個人的な話であっても、そこに自分のソリッドな想いが乗っかっているのであれば、文章はその役目を果たすのではないだろうか。

先月から、本格的にライティングを勉強しはじめた。
これはわたしの覚悟だし、書くことに対する想いそのものだと言い切ることができる。

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