「何のために勉強するのか分からない」という疑問に対する私なりの回答

 標題のような疑問、多くの人が抱いたこと、あるいは聞かれたことがあると思います。私自身、学生の頃はこういう疑問を持ったことも一度や二度ではありません。私は音痴だったので音楽が嫌でしたし、体育で数週間ごとに色々な競技をコロコロとやらされることも疑問でした。例えば、走り高跳びなんて一生やらないじゃん(選手の方、趣味にしている方、スミマセン…)と思ってました。

 ですが、現在は
「なぜ学校では、あんな自分とは関係なさそうなことを勉強させられたのだろうか?」
という疑問に対する一つの回答を抱くようになりました。それをちょっと書いてみよう、という記事です。

 早速、それを書いてしまうと「他者を理解するため」です。実はコレ、上の疑問文をちょっと言い換えると見えてきます。すなわち

「なぜ、自分に関わりないことを勉強するのか?」
=「なぜ、他人に関わることを勉強するのか?」

ということです。

 ここで、論理的には「自分には関わりない」=「他人には関わる」は自明ではありません。それは自分にも他人にも関係ない知識もありえるからです。例えば、10桁のランダムな数列がほしいので、パソコンに適当な乱数を計算させたら100桁表示されたとします。このとき、90桁分は自分にも他人にも必要ない情報です。

 しかし、現実的に考えて、そんなものを勉強しろと言われたことはないはずです。だって、それを教える人自身にも関係ないことですから。つまり、勉強させられることのうち、「自分に関係ないこと」は「他人に関係すること」だと言い切れます。

 例えば、数学の授業が退屈でしかたないとします。それでも、数学が必要だったり、好きだったりする科学者、技術者、あるいは単に理系の知識に興味のある人がこの世界にいることは間違いないでしょう。そして、そうした人たちが研究したり、働いたり、知識を活かして誰かを助けたりしていることも間違いありません。他のことでも同様です。

 しかし、
「わざわざ勉強しなくても、そんなことは分かっているし、自分にできないことをする人は尊敬したり感謝したりできる」
と思うかもしれません。

 それは、私も正しいと思います。私自身、誰かがノーベル賞を受賞したら、研究内容が1割も理解できなくても尊敬します。ですが、そのことについての知識の量によって、その尊敬の度合いや質は全く変わります。

 例えば、寿司屋で本マグロの握りを食べたとします。ある人は、
「こんなに美味しい寿司を握れるなんて、大将すごいねえ」
と思ったとします。一方で、以前にマグロや寿司について、誰かのうんちくをイヤイヤ聞かされたことのある人はどう考えるでしょうか。

 おそらくこんな感じになると思います(長いのでめんどくさかったら流し読みしてください)。

「この本マグロは大間産か。大間のマグロはマグロ漁師たちが日の昇る前から船で沖へ出て一本釣りをしているらしいなぁ。一本のマグロのために何時間も糸を引き続けることもあるらしい。大きなマグロ一本で数百万の値がつくから生活に直結する大勝負だよな。大将の仕事も丁寧だ。マグロを捌くといっても包丁の研ぎ方から違うらしいし。あと魚の種類が変わるたびに、前の魚の脂が残らないように包丁を丁寧に拭き取っているんだよね。ネタの温度も冷えすぎず、ぬるすぎないようにキッチリ管理されてる。あの握り方は確か一手握りで、相当熟練しないとできないらしい。良い寿司は口に入れたときに、ホロリとほぐれてネタと一体になるらしいけど、この寿司はまさにそれだ!」

 どうでしょうか。グルメ漫画の1シーンみたいになりましたし、ここまで考える人はほぼいないでしょうけれど。ただ重要なことは、自分には関係ない(この人は漁師になる気も、寿司屋になる気も、評論家になる気もありません)ことでも、「知っていれば」こうした考えが浮かぶ可能性があります。そして、最初の素朴な尊敬と、後者の人が抱く感謝や畏敬の念は全くレベルが違うと言えるでしょう。

 もちろん、全てのことを完璧に理解するなどということは、誰にも不可能ではあります。それに、自分に直接関係することを優先するのは当然だと思います。しかし、自分に関係ないことを勉強させられていると思うよりは、世の中の人達はどんなことを考えているのかを勉強していると思ったほうが有意義だと思うのです。

 最後に大風呂敷を広げますと、私は
「日本に生まれた以上は他人に関することでも、ある程度知るべき」
とも考えています。

 その理由は、日本が民主主義国家だからです。民主主義ですから、自分たちの生活に直結する行政や法律、司法について自ら判断することになります。ところが、その内容はあまりに多様かつ複雑なので、理解して判断するには学校で習う範囲はもちろん、それ以上に沢山の勉強が必要となります。

 文理を問わない課題の代表例を一つ挙げると、原子力政策でしょう。賛否を考える以前に次のようなことを知る必要があると思います。

・核分裂とは何か(物理)
・放射線の危険性は何か(生物、医学)
・放射性物質は具体的にどのような状態か(化学)
・安全対策はどうか(工学)
・災害対策はどうか(地学)
・危険(リスク)はどの程度か(統計学)
・リスクはどこまでなら許容できるか(社会学)
・地球温暖化との関係性はどうか(環境)
・戦火やテロへの対策はどうか(軍事)
・核燃料、原油、石炭などの産出国はどこか(地政学)
・経済にはどのような影響があるか(経済学)
・景観を破壊したりしないか(芸術)
・人間にとってエネルギーとは何か(哲学)

少し考えただけでもこれくらい浮かびます。

 もちろん、これらについて完璧に理解することなど不可能です。
ですが、すこしでも知っておくことで、政治家の主張を自分なりに判断する助けになります。

 面倒くさいですが、こうしたことを自分で判断できるというのは民主主義の特権です。この特権を捨てるなら、王様が勝手に決めた政策に唯唯諾諾と追従するような時代と同じです。

 とはいえ、国なんていうのは、所詮1人の自分と1億人の他人の集まりです。ですから、民主主義で判断すべきことは、大抵の場合は自分の問題に直結しません。一方で、全体の1%の人の問題に直結する判断が、その問題に関係ない99%の人たちの意思で決まってしまうということでもあります。ですから、民主主義の国で生きる以上、自分と関係ないことでも、他者を助けるために正しく判断する能力をつけること=勉強させられることが必要なのではないかと考えます。

 話が大きくなってしまいましたが、つまるところ
「自分のためにならない勉強をさせられているときは、誰かのために勉強している」
ので、やはりできる範囲で頑張った方がいい、という話でした。



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