江本手袋の手袋にかける誇りと想い
東かがわ市は、手袋の町として栄えてきました。日本全国の手袋のシェアの約9割を東かがわ市のメーカーが占めるといわれます。
そんな地域で手袋製造を営む「江本手袋」のお話です。
手袋産業の始まり
一般的に、地場産業というのは歴史や理由があって始まります。
例えば「今治タオル」だと、江戸時代から地域で綿花が採れ、それを紡いだ糸で織った着物の伊予絣(いよかすり)として最盛期には日本の絣生産の約50%を占めるほどでした。それが産業として衰退してくる頃に広がった自動織機によってネル織物の製造が盛んになり、それが発展して現在の「今治タオル」になります。
では、東かがわの手袋はというと、これといった理由がないんですね。
実は、仕事であれば、何でも良かったんです。
この地域は、香川の他の地域と同じように、雨は少なく、大きな川も無く、塩害にもやられ、田んぼなどの稲作にあまり適さない土地で、江戸時代から塩田で塩を作ったり、サトウキビから砂糖を作ったりしていましたが、明治の頃にはそれも衰退して皆が仕事がなく困っていました。
そんな時代、現在から約130年前に手袋の祖と言われる棚次辰吉(たなつぐたつきち)が、地域の人々の生活の安定の為に、大阪で習ってきた手袋作りをこの地域の仕事にしよう!と取り組んだのがきっかけとなります。
江本手袋の始まり
このように始まった手袋産業は、戦争特需を追い風に発展していきました。
そんな中、江本手袋の創業者である私の祖父は和菓子職人などを経て、親戚の営む手袋メーカーで働くようになり、後に自分が思い描く「自分の周りの人を大切にする経営」をやろうと一念発起して、自分の家族、親戚、近所の人で会社を創業しました。
それが1939年、太平洋戦争前のことでした。
受け継がれる創業当時の想い
順調に事業を拡大していき、2代目の父に引き継がれると高度経済成長の時代になり、デパートや量販店が台頭し始めると手袋業界にも価格競争が始まって、より安く大量にと海外生産が広がっていきました。
しかし父は、それまでと同じで何十件もある外注さん(内職さん)に仕事を持って行っては他愛もない会話をしていました。
父は口癖のように「外注さんの仕事だけは切らすなよ!」とよく言っていたことを思い出します。
父は「今までやってこれたのは地域の外注さんが居たからだ。その外注さんを切ってまで、海外に行くのはいやだ」という思いがあったのです。それは手袋創業の志や思いも同じものであり、この思いを三代目である僕が受け継いでいかなければと思っています。
「Made in SETOUCHI HIKETA」へのこだわり
しかし、ますます地域からは仕事が減り続け、加えて安い商品が大量に出回る事になりました。
その結果、手袋作りという仕事の価値と、手袋そのものの価値がさがってしまいました。
工賃もあげることができず、そんな収入だけでは食べていけないので手袋職人を目指す人がいなくなっていきました。
また、手袋にかかわる外注先、例えば、手袋の型を作る型屋さん、刺繍を入れる刺繍屋さん、袋、印刷、箱屋さんなど手袋にかかわっていた多くの人たちがこの町から離れていきました。
そして現在、東かがわ市は香川県で一番の過疎地域に指定されています。
東かがわ市は手袋で栄えた町です。
もう一度、手袋づくりに関わる人が幸せになれる町にしたい。人が人らしく生きるものづくりに取り組むことで、誰もが喜び合える地域にしたい。
それは手袋職人の聖地です。
だからこそ、江本手袋は「Made in SETOUCHI HIKETA」を守り、手袋職人を守り続ける仕事がしたいのです。
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