踊る自画像について
「踊る自画像」 410×318mm キャンバスにアクリル絵具 2020年
自分が描いた絵について解説する時、言えることはそれが後付けの言葉であるということだ。
言葉にするというのは、また別の絵をもう一枚書いているのと同じことである。
私が絵を描いている時に最も大切なことは、描いている時の感覚そのものだ。
それは自分にしかわからないものである。
そしてそれは今となっては自分にもわからないものである。
それは過ぎ去って行くものかもしれない。
それは内面の世界の話である。
内面の世界がある。それは感覚的な世界だ。言葉の無い世界である。
それがあるという感覚は確かだと思う。
でもそれが他人にもあるのかはわからない。
あったとしてもそれが自分とは全く別のものなのか、はたまた全く同じものなのかもわからない。
もし何も信じられなくなって、全てに心が開けなくなったとして、それでも生きて行くとすると、少なくとも信じられそうなものはこの感覚だと思う。
この内面の世界を一つの取っ掛かりとして、現実を見る以外に方法はないように思う。
自分の中にこれだけは確かにあって、後は確かかどうかわからないからだ。
注意しなければならないことは、いくら内面の世界が充実しようとも、それが現実と関係している訳ではないということ。
内面の世界と現実の世界は全く別ではないとしても、一緒では決してない。
現実といっても、自分が見ている現実と人が見ている現実は違うかもしれない。
とにかく、絵を描いて、それによって内面の世界が充実したとしても、それで現実が何か変わる訳ではないということだ。
変わるかもしれない。でも、変わらないかもしれないのである。
だから現実は現実、内面の世界は内面の世界として区別することが私にとって、生きる為に必要なことだと思う。
例えば内側から何か声が聞こえてきたり、見えないはずのものが見えるということはないが、現実の中に何かのヒントやメッセージのようなものが見えることはよくある。
そういった意味では現実と内面の世界は繋がっているように思える。
ただ、それを現実と強く結びつけて考えてしまうとややこしくなるのだ。
現実のやり取りは必ず現実的なものであるはずだし、内面世界の出来事は、それが例え現実世界に現れようとも内面世界が感じた出来事として処理すべきだろう。
私は描いた絵の全ての筆跡を動画に納めた。
つまり、この絵を描くにあたって、どのような行動を起こして、それによってキャンバスにその結果が残り、絵が出来上がったのかということが記録されているのである。
ただ、この動画を最初から最後まで観ることは難しいだろう。
なぜなら動画には私が何を感じているのかという内面世界が映っていないからだ。
行動と結果は映っていたとしても、その時の感覚は映っていないのである。
最初の一筆から最後の一筆まで何も計画性がない。
絵が出来上がり、それを少し離れて観た時に、「踊る自画像」というイメージが見えたのだ。
踊る自画像のストーリーが見えたから出来上がったのではなく、出来上がった後に見えたパターンであった。
出来上がったという感覚は、また次に何かを描こうと思わない感覚である。
ピシッとした感じというか、子供の時に好きなおもちゃをいい感じにならべてこれ以上動かす必要がないという納得感に似ているかもしれない。
イメージが言葉にならない時はタイトルは付かない。かといってイメージが見えないということではない。
踊る自画像という言葉は珍しくイメージとぴったりの言葉である。
私は無意識的に絵を描き、その途中で様々な意味やイメージが見えてくる。
それは現実の中に意味やメッセージが現れるように感じるのと似ていると思う。
つまり私がやっていることは、終始内面世界の話なのだろう。
だが現実に作品は残るのである。
それは私にとって、絵とは内面世界と現実との接点なのかもしれない。
決して見えない、自分の内面を現実に現そうとすることによって、何かに期待をするのかもしれない。
しかし、決して作品が内面を現しているとは言えない。
それは代わりのものかもしれないし、タイトルや絵を観ても、一つ一つの筆跡を追ったとしても、それで私の内面をそのまま感じられる訳ではない。
だが、絵を観ることはできるのである。
その時に、私の観たイメージと全く違ったイメージが見えたりしたらとても面白いと思う。
何の意味もない汚いものにしか見えないとかでも良いのである。
私は現実世界に、自分が描いた絵の見え方のメッセージを見るのだ。
まさかそんな風に見えるなんてというような、驚きがあるのである。
それは私の絵が抽象画だからだろうか。
それとも私が無意識的に絵を描いているからだろうか。
それをあまりにも現実的に考えるよりも、内面世界の出来事として考えた方が良いだろう。
そうすることによって内面世界と現実が邪魔をしあうことが少なくなり、生きやすくなるのだ。
表現し、発信するとは、可能性ということかもしれない。
この可能性には内面世界を充実させてくれる可能性がある。
その為にしなければならないことはやはり現実と内面世界の区別だと思う。
小さい時、夏休みや冬休みになると、母親が運転する車に乗って、じいちゃんの家に向かった。
京都から兵庫までのその途中、高速道路でいつも太陽の塔を見た。
その時いつも、お腹の顔が怒っていないかを気にしていたのである。
確か母親が冗談で言ったのだと思う。
今日はお腹の顔が怒ってるとか、笑ってるとか。
それが何となく恐くていつも気にしていた。
上の顔はいつも無表情だった。
時が経ち、気が付けば皆、太陽の塔に見える。
レジ打ちをしてくれる人も、配達をしてくれる人も、すれ違う人も。
見えないお腹の顔が気になって仕方がないのである。
私だってそう、気付けば太陽の塔になっていた。
お腹の顔で世界を見よ。お腹の顔でお腹の顔を見る分には何ら問題はない。
絵を描くプロセスにおいて、大体は抑鬱状態か軽躁状態である。
この絵は四日で出来上がった。
最初の三日間は何もない状態か軽い抑鬱状態くらいだった。四日目はふとスイッチが入って軽躁状態だった。
最初はよくわからないけど、何となく何かを組み立てている感じ。そして色々とイメージが見えてくる。最後はそのイメージを含めてぐちゃぐちゃにして気づいたら出来上がっている感じである。
見えてくるイメージを壊すような力は軽躁状態のスイッチが入らなければなかなか出来なくて、そうやってめちゃくちゃになる状態の時に何かと何かが繋がることが多い。
大体はそんなプロセスだが、軽躁状態から始まる時もあるし、バラバラで、どうやって絵ができたのかはよくわからないから、絵が出来上がった時の内面の充実感が大きくても、次描く時はまたゼロからで、出来上がる保証は無く、それが虚しくなる時がある。
とにもかくにも、それはその時の出来事だった。
その時の内面世界の出来事だった。
それを現実に残そうとしたのである。
そしてそれは別の形として残るのである。
そこに意味がある。
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