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「道まちがえてよかった」と思えるようになってきた。


あるとき、夫の運転する車ででかけていたところ、ナビが教えてくれる最短ルートから外れてしまった。夫が「あ!まちがえた」と気づいてしばらく進んだとき、目の前に突然、でっかくてド派手なテントが現れた。なんじゃこりゃ!とびっくりして調べてみると、サーカスだった。サーカスなんて子どもの頃に行ったきり。まだ期間が始まったばかりだというので、チケットを取ってふたりで見に行こうと話が盛り上がった。そのとき夫がぽつりとこう言った。

あ~道まちがえてよかったねえ。サーカスを見つけるなんて」

自分でまちがえておいて、「まちがえてよかったねえ」と言いきる夫の前向きさがなんだかおかしかったけど、どんな言葉も名言に感じてしまう体質のわたしは、これは名言、これは人生だという気がして、勝手に胸に刻んだ。


過去数年、わたしにはずっと道をまちがえている感覚があった。

うまくいかない。たのしくない。何ひとつ思うようにならない。最初のきっかけは度重なる流産で、不妊治療で、つまりわたしという人間の一部のできごとに過ぎなかったはずなのに、それはまるでわたしのすべてのようだった。心がすこやかな日がない。体もしんどい。そしたら仕事もまともにできない。学生時代のわたしがせっかくがんばってくれたのに、就活してくれたのに、20代のわたしが懸命に働いてくれたのに、それを自らの手ですべて水の泡にしているような、ただくよくよすることにエネルギーを費やしている30代の自分。学生時代の同級生も元同僚も着実に進んでいるのに、わたしはどこで道をまちがえただろう。情けなくて、不甲斐なくて、どうしようもなくて。完全に迷子になっていた。

そこから季節が何度も移ろい過ぎて、視界が晴れてきて、今。毎日比較的心おだやかにすこやかに暮らせるようになってきた。わたしが思い描いていた人生とはかけ離れているし、なんでわたしは…といじける日も時々あるけれど、今の生活はとても気に入っている。道をまちがえてよかったと、思えるようになってきた。どこでまちがえたんだろう…と途方に暮れていた日々の中で拾ったものが、あまりにもたくさんあって尊くて。

ほんとは何がしたかったのか。ほんとは何を大切にして何に時間を使って生きたかったのか。まちがえたと思った道の中で、その輪郭がようやくつかめてきた。わたしの人生をかけて極めたいと思うことにも出会い、学び始めた。noteだって、こんなことでもないと書かなかったと思う。最適だと信じて疑わなかったルートをひた走っていたら、これらぜんぶ出会えていなかったかもしれないと思うとこわい。ああ、道まちがえてよかった。今では、元の道には戻りたくないとさえ思う。もしかしたら、これがわたしの道だったのかもしれないとも。こんな日が来るんだなあと、自分のことなのに、なんだかじーんとしてしまう。

念のため伝えておくと、結局チケットを取り忘れて、思い出したのは公演終了後。ということで、そのサーカスには行けなかった。まあ名言に出会えたのでよし。


おわり

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望月
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