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『タダの箱庭』を読んで

三角のエコビレッジサイハテという場所を訪れた。
そこで『タダの箱庭』という本に出会った。


私たちは ふたつの世界に生きている。

ゆえに、どこまでも利己的で社会的な生き物なのだ。
ふたつの人格を持っていると言い換えても良い。
見返りを求める時と、求めない時。
人や物事を価値基準で判断し、値踏みし忖度してばかりな時も、危険をかえりみず、困っている人を全力で助けようとする時もある。
どちらが本当の自分か?
その答えを知るために、世界がまったく違うふたつの世界でできているコトを認識しよう。
ごちゃ混ぜのダブルワールドで、 どうすれば自由に生きれるか?
お金も幸せも手に入れる方法は?

その手がかりを探索するのが、仮想未来世界を舞台にした社会実験 【 箱庭 】 だ。

招待状として 1万冊の本 を用意しよう。
この本は書店では買うことができないから、探して手に入れて欲しい。2つの世界を自在に見通す装置をインストールしたら、仮想世界HACONIWAで逢おう。
そして最終的には、現実世界にリアルなテーマパークとして 【お金が消えた世界】 を実装する。

もしあなたが今の世界に違和感を感じているなら、私たちと一緒に未来をつくる冒険をはじめよう。


この本が書店に並ぶことはない。その入手方法は今持っている人からのギフトだけ。そして、この本を読んだらあなたが読んでほしいと思う人に回していく。ペイフォワードで仲間を増やそうという試みだ。
限定1万冊で作られたこの本がぐるぐると回っていき、じわじわと共感する人が増えていく。そういう社会実験なのだ。

ようやく読み終えた。ギフトでもらえてから一月程経ってしまった。なかなかボリューム満載で。1ページ読んでは自分なりに考えてを繰り返して読み進めてきた。今まで出会ってこれなかったたくさんの人たちの思想に触れられたように思う。それもただ一端なわけだけど。これは僕の人生に当たるべくしてやってきた一冊だったのだろう。

この本を読みながら、僕が思ったことをここにつらつらと綴ってみる。

見返りを求めずに、ただただギフトが巡る世界。そんな理想の世界が今その目の前にあるのかもしれない。




お金が絡んでモヤモヤしたこと

お金が絡むことで大切なものを見失っている自分がいた

僕はゲストハウスで働いている。毎日色んなゲストが来てくれる。どっから来たの?とか今日はどこに行くの?とかそんな会話が楽しくて働いている。仕事としては、お店の売上を計算して、やり繰りできるのかを考えたり、宿泊費はいくらにして、どのぐらいの数は埋めないといけないのかを考えたりしていた。そんな時にふと、目の前にいるゲストのことを、3,000円で予約した人だとか、5,000円の人だ、と名前や顔ではなく、金額で値踏みしている自分がいることに気付いた。その時になんだかうなだれるような感情になった。そんなことをしたいために働いていたのだろうか。環境をよくするため、お店を回すためにお金を数えることが必要なのはもちろん分かることだけれど、それで最初に感じていた働く楽しさを忘れてしまっていたのではないだろうか。お金が絡むことで大切なものを見失っている自分がいた。

僕が人生において問題にしたいのは自分と環境について

人生は愛かお金かという命題に向き合ってみようと思う。僕は前提として、自分のために何がしたいのか、周囲や環境のために何がしたいのか、ということを大切にしたいと思っている。それにはまずは愛情が必要なんだろう。自分のことを大切にしてやることで、自分のやるべきことが見えてくると思う。その先には壁にぶつかることがあるだろう。お金をかけることで解決ができるかもしれない。人の繋がりや労力をかけることで前に進めるのかもしれない。愛が根底にないと、続くものも続かない。お金が手元にないと、続けたいものも続けられない。愛とお金は自分と環境が育まれる上で大切なものなんだろうと思う。

評価をされるのが苦手

美味しいご飯が食べたくて料理をする。気まぐれに適当な食材を入れてみたり、好きな調味料を入れてみたりする。それはただ、自分のためにやっているのだ。そのご飯を誰かに食べてもらった時に、美味しいとか不味いとか、作り方がいいだとかわるいだとかは、別に聞きたくない。その料理の評価をされるのが苦手なのだ。勝手に外から価値をつけられて、相手のための行動にされると、その気まぐれで得られたはずだったものが消えてしまい、なぜか別の形のものになって返ってきてるように思う。僕はただ自分が満足したいだけだったのに。自分の内から湧く気まぐれな感情を守ることができるのは他でもない自分だけなんだと思う。


損得勘定が損なうもの

自然と打算で人を見ている

見返りがありそうな人に近づいたり、この人は僕に居心地の良さを提供してくれるとか、でもこの人は僕には関係のない世界にいるとか、自然とそういう打算で人を見ている気がする。

旅に掛かった費用は30万

楽しかった旅を損得勘定で見てしまった。振り返ってみると旅に掛かった費用は30万だった。これだけ旅に掛かったから、当分はできないなぁと思ったのと、そのぐらいには価値のある旅になったかなぁと自分に言い聞かすように旅の価値を値踏みしていた。損得を勘定すれば、どれだけのお金を使って遊ぶといいかが分かるけど、そんなことを測りながら遊んでいるのが本当に楽しいのだろうかとも思う。やってみたいと思ったからやってみる。そうやって遊ぶのが本当に楽しいんだろうなぁと思ったりもする。

自分の求めることと、相手や環境の求めることと、それぞれの方向性がある中で、自分のやるべきことをやっていたい

自分がしたくはないことなのだけれど、相手のためにした方がいいかなと思ってしていることがある。そういう時は、それが自分に何をもたらすのか、どういうメリットがあるのかを求めている。自分のやりがいとは別の方向性として損得勘定に頭が切り替わっているのだと思う。自分の求めることと、相手や環境の求めることと、それぞれの方向性がある中で、自分のやるべきことをやっていたい。

自分のものさしで測っても小さいものが、相手のものさしで測ってみると大きかったりする

自分にだけいいことがあった時に周りの目が気になったりする。自分だけ得をしていると反感を買ったりしないかなとか気になる。ただ嬉しい出来事のはずなのに、嬉しいことよりも何か周りに言われるのがいやだなという方が大きくなってくる。例えば、ケーキをもらった時に、周りを見渡してみると、ケーキが好きそうな人がいたら、僕がもらうよりもあげた方がいいかなぁとか思う。自分がケーキをもらって嬉しい喜びよりも、ケーキが好きなその子がもらえた喜びの方が大きいようなら、それがいちばんいい気がする。そういう気持ちと同時に、いいなぁとか食べたかったなぁとか言われるのがいやだなぁという気持ちもある。自分のものさしで測っても小さいものが、相手のものさしで測ってみると大きかったりする。別の人のものさしではまた違ってくるんだろう。そんなにいちいち人のものさしで測っていても人生つまらないだろうにとも思ったりするわけなのだけども。


お金で手に入れたいものって?

お金とかギブ&テイクとかで得たいものについて考えてみる

なにかを得ることのやりがいとか達成感とかかなぁ。それで自分を満たすことかなぁ。もしくは損をしたくないという社会との平衡感覚かなぁ。お金を回すことやギブ&テイクを回すことで社会との繋がりや安心感を得たいのかなぁ。信頼に足る人間なんだと一人前の大人なんだと認めてもらいたいという気持ちもあるのかもしれない。

この世界に存在しているという立体感

自信のない子供だった。これといってとりえもない普通の子供。でも走ることが楽しくなって、よく走った。運動会の徒競走のランナーに選ばれると一番になることができた。僕は走るのがみんなより速いんだと思えるようになった。その経験は僕に大きな自信を持たせてくれた気がする。ようやくこの世界に存在しているという立体感を得られたように思えた。

みんな貸しでよければ、それで回っていく

物流を円滑にするために生まれたお金。みんな貸しでよければ、それで回っていくらしい。誰かが止めて貯め込むと、損得が生じて歪みが生まれるんだなぁ。お金も愛情も、きっと一方的に受け取っているだけで与えることを忘れていると、持っている人と持っていない人が生まれるのかもしれないなぁ。

お金には問題を解決してくれるという安心感がある

お金で手に入れられるのは安心なんだと思う。今ある暮らしがいつまで保てるかはわからない。誰かに奪われそうになった時、何かで損なわれそうになった時、お金には問題を解決してくれるという安心感がある。それはみんながお金を大切にしているからなんだろう。だから自分の手元にお金を貯めておきたいのだとも思う。


損得のない世界はどこにある?

身内の喜びは自分の喜び

家族のことを考える時には、損得という色メガネから解放されているように思う。後輩や年下の子のことを考える時には、昔の自分を見ているようで、損得ではなく何かをやってあげたいと思う。それらはもう身内なんだと思う。もうすでに自分という存在の一部として捉えているから、身内の喜びは自分の喜びになっているんだと思う。

お金を使用することが禁止された世界でギフトしてみたいことを考えてみる

相談事を聴いて自分の考え方を伝えるとか、穏やかな居場所を提供するとかかなぁ。自分の心地よいものを共有して、みんなにも心地よさを味わってほしいということかなぁ。

天から与えられたギフト

僕の周りにはどんなギフトが溢れているのだろう。今現在、心地よく働ける場所をもらえている。そして親元を離れて自由に暮らしを作らせてもらえている。今の状況があるのは、本当にありがたい。
また、ギフトには天から与えてもらったものという意味もあると思う。身体が大きい人がいれば、記憶力に優れる人もいる。僕はたいてい穏やかでいられる。波風立たせず穏やかでいるのが好きだ。落ち着ける場所がほしい人に、落ち着きを与えることができると自分を信じているし、それが天から与えられたギフトだとも思う。

ギフトエコノミーのアイディアを考えてみる

蜜蜂が花の色香を損なわずに蜜を取り去るがごとく、とはブッダの言葉。使った場所は綺麗にしていく。次の人が綺麗に使えるように。暮らした家は修繕していく。次に住む人の暮らしが豊かになるように。住んだ街には活気を残す。ますます住みやすい街になっていくように。そういうことができるといいなぁ。家の食卓にお菓子のお土産を置いていってくれるのも嬉しい。次に遊びに来た人にお裾分けしてあげられる。


❝市場規範と社会規範❞ごちゃ混ぜのダブルワールド

ごはん奢ってあげるから行こう

学生時代の話。友達がいつも遊ぼうと声を掛けてくれた。でも僕は基本的に家を出るのがめんどくさいから断る。すると、ごはん奢ってあげるから行こうと誘われる。それならいいな〜と一緒に遊びに行く。そうしていると、いつしかごはんを奢ってくれるなら行くというのが当たり前になっていた。友達と遊ぶ中に市場規範の世界を持ち込んでいたことを振り返ってみると思い出す。

やってあげましょう!という慈愛の精神

フォートナイトは市場規範、どうぶつの森は社会規範のゲーム。モンスターハンターで、モンスターに出くわさないように採取だけしているのが楽しいと言っていた人の話を思い出す。僕はRPGのクエストを引き受けて達成していく世界観が好きだ。いちばん楽しみを覚える瞬間は、クエストを引き受ける時。依頼主は困り顔で助けてくれと頼んでくる。そして、やってあげましょう!という慈愛の精神ですすめていく。この引き受ける瞬間が楽しい。そしてクエストをこなして達成したことを依頼主に伝えると次のクエストをもらう。この連鎖が、また楽しさが続いていく秘訣なんだろう。実生活にもこのリズムを持ち込んでいきたい。

自分が世界の流れに反することをしたという罪悪感すら感じる

愛情を込めて料理を作って待っているのに旦那が仕事からなかなか帰ってこない。なんでやってあげてるのに受け取ってくれないのか、というすれ違いというか事故が往々にある。そして、やってあげたのに、、というざわざわした感情だけが残る。
僕は自分がしたくてしていることならいいのだが、例えば相手が帰ってこないとかで料理が無駄になると、きらきらした感情でやってあげていたはずなのに、そんなことはしなくてもよかったなと無駄な労力だったなと思うと同時に、自分が世界の流れに反することをしたという罪悪感すら感じる。きらきらしていたはずの感情がどんよりしてしまう。その輝きを保つには、自分がしたいからしてあげてるだけなんだということ、もしくは相手のことを思うなら、相手が受け取れる分だけやってあげるということだろうと思う。

役に立ちたい!感謝されたい!

市場規範の中で働くことはライスワーク、社会規範の中で働くことはライフワークとも言える。仕事をしている時、決まった時間帯に勤めることで給与を得るというライスワークをしている。でも、その中で役に立ちたい!とか、感謝されたい!とか、あるいは自分の力を発揮させたい!という想いがある。それはライフワークと呼べるもので、同じ仕事の中にも、自分のためにという部分と会社のためにという別の行動原理があると思う。なので、市場規範の関係の中にでも、自分の持つ感情を注ぎ込むことで、市場の損得とは別の基準で受け取れるものが生まれると思う。


白か黒かでばないグラデーションの世界

損得勘定のボリュームは調整できるはず

困っている人を助けてあげたいという気持ちは素敵なこと。その時に、自分の今あるエネルギーに応じて、人を助けることに力を注ぐのか、注がずに自分に蓄えるのかを判断してもいい。損得勘定のボリュームは調整できるはず。自分の余裕次第でどれだけ動けるのかを見定めるのは別にわるいことじゃない。

見方を変えることで、受け取り方が変わった体験について

昔の話。2万円を全然返してくれない友人がいた。それなりに稼いでいる人だから、いつでも返せるはずなのに、全然返してくれない。時折それを話題に出すけど、面白がっているだけで返してくれない。僕も別に困っているほどでもないから、返すのはいつでもいいとは思っていた。でも、お金の話をするのは苦手だし、お金の問題をそのまま残すのは、どうだろうと思っていたので、そう伝えて返してもらった。でも、今ならわかる。ただなにか見える繋がりを持っていることが良かったのだろう。そういう意味でなにかを相手に預けておく、もしくは預かっておく、というのもわるくない気が今はしている。

自分ができる範囲で手を加えてみる

山の森が豊かなのは当たり前ではない。川の水が澄んでいるのは当たり前ではない。自然の土壌が豊かに生きているということは当たり前ではない自然の奇跡であり、地球が与えてくれたギフトでもある。その環境が美しくあれるよう保ってきた人たちのおかげでもある。今目の前にある環境は、家族や会社など自分がいる環境は、当たり前にあるものではない。その環境に自分ができる範囲で手を加えてみることで、環境の一部としての自分を感じられるのかもしれない。それはその環境に生きる個人の使命なのだと思う。そしてそれが生きる喜びなのだとも思う。


読み終えて

この本を読むことで自分を振り返ることになった。自分の考え方を洗い流していくことで、世界への解像度を上げる。それはタダの箱庭の世界へと足を踏み入れるための禊のようなものなのかもしれない。

興味のある人はぜひこの本を探して見つけてみてもらいたい。


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