カメラ、めっちゃ楽しい
雑記。
私は自分の子供をより綺麗に撮るために、2021年3月、Nikon Z6iiというフルサイズミラーレスカメラをキットレンズセット(24-70 f/4)で購入した。
あれから約2年半。
Z6iiは売却し、最上位機種のZ9と、ほぼ同等の機能を持つZ8のカメラ2台、大三元レンズ2本(標準と望遠)、85mm f/1.2の単焦点、105mm f/2.8のマクロの合計4本のレンズを保有している。ヤバいね。破産しそう。
最近は特に、頭の中は「どうやったら美しい写真が撮れるか?」の検討に支配されていて、実際にカメラを持っていなくとも、写真のことが頭から離れない。
そして何より、めちゃくちゃ充実していて楽しい!
この感情を残しておきたく、書き残してみる。
何者?経緯
私はカメラ・写真と一切関係ない業界の一般企業に勤めるサラリーマンであり、一児の父だ。
前述の通り、きっかけは子供が生まれたことで、それも生まれてすぐというより、3歳くらいの時にフルサイズを購入した。
もう本当にそれだけだ。
すごくハマって、実は1年くらいで少し飽きた
学生時代から写真撮っていて〜とか、ではない。
それどころか、カメラ買ってちょうど1年くらいの頃、一旦飽きている。
私はもともと何事にもあまり関心が深まらない性分だ。
結構色々チャレンジはしてみたりするのだが、結局何事にも熱中できず、「あぁこんなもんね」と思って、そう感じるとスッと身を引いてしまう。
ちなみに、そういう人、意外と多くないですか・・・?
流行っている時だけ特定のスポーツにハマったり、そんなキャラでもないのにハロウィンでイキってたりするのを、めちゃくちゃ冷めた目で見てしまうというか。一方で、ちょっと羨ましいというか、本質的に熱中できる何かを探している自分がいるというか、そういう人。
話を戻して。。。
一旦カメラから離れた、とあるが、カメラについては冷めたとかではなく、家族の問題で写真をとるような余裕が無くなって、物理的に、強制的にシャットダウンされたような形だった。
あと、せっかくいいカメラを持っているんだからと思って始めたinstagramに嫌気がさし始めていた、というのもあった。毎日投稿が辛すぎて、撮りたいモチベーションとか、そもそもネタが枯渇して といった理由もあった。
子供の写真を撮るのは半分仕事というか、それは続いていたのだが、本当に自分の趣味写真 という意味では2022年春頃一旦ストップしてしまっていた。
好きではあったが、なぜ好きかはわかっていなかったし、そんなことをしている場合でもなかったし、スランプだったし、という、そんな感じだった。
もっと自分本位に生きなきゃと思って
そんな状態からものの数ヶ月で再び、むしろ始めた当初以上にハマるわけだが、それを説明する上でちょっと自分の本質を改めて振り返る。
自分で言うと変だが、私は何かと「人のために」をモットーにする、自己犠牲大好き"風"マンだ。
就職先選定も、仕事の進め方も、パートナーへのスタンスも、大体そうだ。
だからか、自分勝手なことをする輩は超嫌いになる。
一方、学生時代からプライベートで仲良くなる奴は、大体めちゃくちゃ自分勝手で、かつ個が強いキャラクターの人が多い。故にめっちゃ振り回されるのだが、それは不思議と嫌いじゃなかった。(まぁ、遊びだから。。)
で、これが災いして家庭というか夫婦生活が一度崩壊しかけた。
執事さながら、家族のためー といって、大体10年くらいやり続けた結果、私が精神崩壊してしまった。笑
私は自己犠牲なり他人が幸せになることそのものが好きなのではなくて、それに対する見返りが欲しかったようだ。その「見返り」が何か、自分でもわからず、でも不満は溜まり、爆発 と。
これは相手からすると地獄で、何が欲しいか見えない時限爆弾だ。
それはなんとなく自覚していたが、嫌な形で明確にこの私のスタンスの運用の欠陥が露呈した。
で、もっと自分に素直に、自分がやりたいことを、真剣にやらなきゃと考えるようになった。子供成人した後とか、退職した後とか、老後とか、マジで何すれば良いかわからなかったし。
そういうことを、2022年は強制的に考える年だったと振り返る。
アート作りという切り口で、再びカメラ熱再開
トリガーは完全に下のYoutube動画。
今や王国民として崇拝する対象ではあるが、まぁ控え目に言ってこんなよくわからん、若い、しかも怪しいYoutuberの、それもこんなサムネの動画に、ここまで人生を動かされるとは思わなんだ。
(今はちゃんと尊敬してますし、大感謝していますよ。当初ね!)
動画を見ればわかるが、カメラとか写真とかではなく、絵画も含めた「絵」に対する、アートクリエイター目線でのものの捉え方 みたいなものの一端を非常にわかりやすく伝えているものだ。
この「アートクリエイター目線でのものの捉え方」が、すごく興味深く、新鮮だったことを今もよく覚えている。
こんなことは今まで誰も教えてくれなかった。
すごいアーティストが作品作成に関して語っているのは、例えば情熱大陸やプロフェッショナルの流儀などのTV番組、Youtubeなどでたくさんみてきた。だが、正直何言っているか半分も伝わってこなかった。
海外のこのロケ地の空気感を感じてこの曲を作った だとか聞いても、空気感って何?その曲のどこがこのロケ地のどこにどう関連しているの?という謎が全く説明されないし、でも説明している側は説明しきった顔しているし。
この野生動物の素晴らしさを伝えるには雪山に何ヶ月もいる必要があって とかも、いやいやいやなんで1枚目の写真じゃダメなのよ。何がどう違ってそんな粘るのよ?というのが全く伝わってこないし。
そういうのを説明するのは野暮 だしどうせわからんでしょ 感が溢れてて、そういうもんだ と私自身思っていた。
上記動画は、それらこれまでの私の常識をひっくり返す、アートガチ勢の脳内の思考回路の明快な説明だった。
これを見て、俄然アートが面白く感じ、美術館巡りに始まって、再びカメラを手にするに至り、今となっては作り手側の深い沼でニコニコしながら溺れもがき苦しんでいる。
余談;「芸術的センス」という言葉
私は「芸術的センスがある」とか「ない」とか、そういうフレーズを、思考停止した人間の説明だ、と感じるように最近なった。
アートは、「センス」という一言で思考停止し覆われていたり、作品作成はやれてはいるが言語での説明能力は低いアーティスト・批評家によって覆われているだけの、非常に緻密な計算と奥深く広い知見と圧倒的な研鑽が必要な「仕事」であるように考えるようになった。
アートは、アーティスト本人がそれを意識しているか とか、ちゃんと人に伝えられているかどうか は別として、むちゃくちゃ脳みそに汗をかく、ちゃんと実体のある、やりがいのある活動だ。
単に言語でわかりやすく説明されていなかったり(日本固有かもだが、芸術に関する教育が弱すぎるせいかも)、一見ハードルが高そうなイメージがあったり、「それって意味がないじゃん」勢にやられて弱っているだけの、でも多分永久に人間が捨てることはできない、それこそ価値のある領域だと、今の私は強く思う。
話はズレるが「それって意味ないよね」は、私も好んで使うマウンティングワードだが(性格の悪さが露呈)、仕事現場で明確に意図して使わない限り、ちょっと使用を控えた方がいいかもしれない。「意味」の意味を履き違えた、恥ずかしい発言になっているかもしれないから。。
教育や医療と似ていて、ミステリアスな雰囲気を醸し出すことで、神聖なテリトリーを守るためわざとやっているのかもしれないが。。アートに関して言えば、もっと間口を広げないと敷居高すぎるし、敷居高すぎて一般庶民の需要と供給が生まれず、困るのはアーティスト側だと思うからアホすぎると思うのだが。。。まぁそれはいい。。
深く広い沼は楽しさが無限大
写真の世界は恐ろしく深く、広い。
風景、スナップ、ポートレート、物撮り、抽象、記録(報道)、乗り物。静止画は、そもそも被写体によってそれぞれ別物と言える世界が広がる汎用的な性質を持っている。
カメラとレンズはそれ自体が沼と言われる深さ・広さを持っているが、所詮はただの道具。そこから吐き出される写真にこそ、真の沼がある。
また、機材と表現の掛け算もあるので、無限だ。
この無限性が、「また飽きちゃうかも」という心配を減らしてくれる。
一生を費やしても、絶対に網羅ができないし、「美しさ」というテーマには答えがなく、キリがない。
写真・カメラの世界は底なしの沼だ。
それゆえに、いつまでも楽しめる最高の遊び場だ。
意味があるとかないとか、必要不必要とか、そこじゃない。
SNSとかフォロワーとかいいねとか、表彰とか、それも本質ではない。
「撮る楽しさ」みたいなのは、ちょっと説明が情緒的すぎて、説明としてはクソだ。でもなんて表現すればいいのか。
そうだな。。
その地に自分の足で赴き、肉眼を通して見て、脳が感じた「美しい」という感情を、「写真」というツールを使うことで、第三者にそのまま あるいは場合によって それ以上に伝える ことが写真撮影という行為だ。
その楽しさは、カメラを持っているからこそ動機付けされる美しい場所へ赴くことそのものであったりするし、美しさを残すために四苦八苦する撮影プロセスであったりするし、撮れた写真が評価されることであったりするし、より一層上を目指すために研究をすることであったり、それらを共有する仲間との出会いであったりする。
おそらく、大多数にとって、少なくとも私にとって、社会的な利害関係から切り離された「美しさの追及」というテーマだからこそ熱中し切れるのかもしれない。効率は考えるが打算はなく、ただ純粋に追及することに集中できるためだ。
だからきっと私にとっては、あくまでも趣味としてカメラで、写真で遊ぶことこそ意味があり、充実させるファクターになっているのだと思う。
なんの話だ。。
まぁ、そんなことを今は考えている。
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