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2020年、コロナ年に採用された教師として 紆余曲折の日々<その4>

運動会が無事に終わり、平穏な日常を取り戻したと思ったのも束の間、

もう1つの一大イベント音楽祭的な行事の練習が始まった!
(自治体が特定できてしまうため行事の名称は割愛します)

子どもたちがお父さんお母さんにかっこいい姿を見せられる大切な瞬間。

僕は、指揮者を任されることとなった。

“何でも屋“と書いて教師と読む

例年、音楽祭的な行事は、各学年、合唱と演奏をする。

1年生は可愛らしく、まだまだあどけなさを感じます。
反対に、6年生は、壮大な合唱と演奏で最高にかっこいいのです。

演奏コンサートには縁が全くない僕でも、去年のビデオを見て感激していました。

コロナ年の音楽祭的な行事は、演奏だけ。
合唱は飛沫が飛び、安全が確保できないとの判断でした。

正直、残念でした。クラスの子どもたちの合唱が見れないなんて。

しかし、落ち込んでる暇はありませんでした。なんと、学年の演奏の際、指揮者をすることになったのです。

指揮者はほんとに嫌でしたが、やると決まったらやるしかない。

とは言うもののなかなか動き出すことができず、音楽の先生(もちろん指揮もめちゃめちゃ上手い)に指揮の特訓をお願いしたのは、本番3日前でした。

そこから教室にある何も映ってないテレビの反射を利用して指揮を振り続けました。

「ボールをバウンドさせるようなイメージ!」
「指揮は振り終わった後、筋肉痛になるくらい、メリハリをつけて」
「フワッじゃない!ピタッだ!」

もはや天才の教え方。

時計は19時をまわっています。
見様見真似でテレビに映ってる自分と見つめ合いながら繰り返し練習しました。

そのとき、ふと、ある疑問が頭を横切りました。
「あれ?自分は何してんだろ?」

少し前、ピストルでスターターをしました。
もっと前、いけない習慣に体調を崩しました。

そして、巡り巡って、今、


指揮をしている。

教師とは、子どもたちと授業をするときも休み時間も笑い合い爽やかな汗をかく。

「○年○組!」
と上のカメラに向かって叫ぶと
「〇〇先生〜!」
と叫びながらこちらへ駆け寄ってくる大勢の生徒。

あれ。これはやっぱりドラマの話だったか。こんな世界に憧れていたのか。

子どものためなら「何でも屋」でもいい

そんな堂々巡りな僕を救ってくれたのは、他にもない1人の子どもだったのです。

僕のクラスには自閉症のAくんがいました。

彼には手を焼きました。まさに教師になり1番最初に課せられたミッションでした。

でも、彼はとてつもなく可愛いのです。

昨年度の悪評しか聞いていなかったので拍子抜けでした。

それでも、集団行動は苦手でした。こだわりが強く、すぐに殴り合いの喧嘩になる。独り言が止まらない。机を叩き音を出す。何の理由もなしに友達を蹴りに行く。

僕はその都度、何度も注意しました。
自閉の子どもには難しすぎる要求でした。

「人の気持ちを想像しないと」
そう注意しました。その後、謝ることもできるのです。

でもまた繰り返すのです。思えば人の気持ちが想像できていれば蹴りません。喧嘩もしません。

そこで、A君が輝ける場所はないかと考えました。


例年、音楽祭的な行事の演奏の最初に学年の代表として意気込みを語る役割の子どもが選ばれます。

クラスで「やりたい人はいるか」と募ったとき、
おふざけ半分でA君が手を挙げました。僕は迷いましたが、任せることにしました。
幸い、彼は賢かったのです。セリフは覚えられる。

結果的に、この判断は正解でした。

音楽祭的な行事の練習中、A君は注意されてよく目立っていました。
そのA君が褒められるようになったのです。

お得意の“ニマッ!“という笑顔を浮かべたかと思うと、

リコーダーをフルートを吹くようなもち方をして、軽快なステップで足踏みしました。

周りはA君を見て笑います。しかし、馬鹿にした笑いではありませんでした。
何とも暖かい、見ていて微笑ましい瞬間でした。

A君は自分の意思で周りの子どもたちの気持ちを突き動かしたのでした。


そして、迎えた本番、一体感を保ったまま、素晴らしい演奏をし終えると、子どもたちは胸を張って舞台を降りたのでした。

今でも忘れられない、教師という職業の醍醐味を味わった瞬間でした。

次回へ続く

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