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2020年、コロナ年に採用された教師として 紆余曲折の日々<その5>

子どもたちは僕のへんてこりんな授業を受けながら、それでも立派に成長していた。

冬休みが明けたときのこと。

子どもたちは、その成長した姿をたくさんの場面で見せてくれた。
季節は冬。僕たちは、激動のコロナ年に別れを告げ、2021年をひた走っていた。

もうすぐ、お別れだね。

授業中や休憩時間にそんな声が表情から読み取れるようになりました。

1月になった頃、クラスの仲良しだった女の子2人が交換日記を原因に大喧嘩をした。
それまで仲がよく、いわゆる上位カーストに位置する子どもでした。

その喧嘩は学期末、3年として登校する最後の日まで続きました。もちろん、指導をしたのは僕でした。

そのときはお互いが納得して早く解決しようとしか思っていませんでしたが、今となっては可哀想なことをしてしまったと感じています。

というのも、まず僕が交換日記を禁止していれば喧嘩は起こりませんでした。喧嘩が起こらなければ最終日まで指導する必要もなかったのです。そして、指導をしている間、先生を待つ教室の子どもの姿もなかったはずです。

最終日、2人の子どもにはこのようなことを伝えました。

「辛くなったら大人を頼りなさい。学校中の先生があなたたちの力になりたいと思っているから」

 もう少し、発覚するのが早ければ。そんな思いがありました。


話が長くなってしまいました。とても印象的な2人でした。

怪しい動きをする子どもがいました。
怪しいと言っても、何をしているかはバレバレ・・・

実は、子どもたちが自主的にクラスでお別れ会をしようと企てていたのでした。

当日、呼ばれたのは、クラスのみんな、僕、それから国際教室のS先生でした。

突如、登場しました、S先生。なぜ呼ばれたのか。それは、音楽の時間にありました。

3年生は、国語、算数、社会、理科、外国語の5教科、図工、体育、音楽の3教科、特別活動、総合、道徳の3教科の授業があります。恐ろしいことにその全ての教科を1人で教えていました。

今の時代、小学校も教科担任制が主流になってきています。教科担任制というのは、クラス担任はいるけれど、教科ごとに先生が変わるというもの。中学校からそうなった人が多いのではないでしょうか。

当時の3年生は教科担任制ではなく、完全な学級担任生でした。経験のある先生はやりやすいかもしれません。教科担任制は授業時数や日程の打ち合わせが必要ですから。

ただ、音楽だけは専科と言って学級を持っていない先生が受け持ってくれていました。「音楽の先生」と呼んでいた先生がいたのではないでしょうか。

しかし、その音楽の先生が11月の後半にいなくなってしまいました。

「3年生は音楽も担任がやります」校長からでした。

国語や算数の授業もままならないのに音楽の授業なんて絶対にできない。
そんな時に救ってくれたのがS先生でした。

音楽の授業を全部代わってくれました。子どもたちにも申し訳ない授業をせずに済みました。


このような経緯があり、子どもたちもS先生が好きだったんだと思いました。さて、話をお別れ会に戻しますね。

お別れ会は、体育館で行いました。ピークアフーや新聞じゃんけん(両方ともアイスブレイクのレク)を行い、楽しくときは流れていきました。

ただ、お別れ会に向けて準備していた怪しい集団はこれで終わりません。

突然、子どもたちに壇上に呼ばれたかと思うと、王冠と似顔絵、寄せ書きをプレゼントしてくれました。

本当に嬉しくて、何度も「ありがとう」と言っていました。
この寄せ書きは今でも大切に保管しています。


さいごに

新任であったことやコロナ禍の状況であったこと、右も左もわからず、できないことも増えていき、大変な一年でした。毎月のように残業時間は80時間越えです。

それでも、子どもたちが毎日「先生」と呼んでくれました。「このクラスで良かった」と言ってくれました。

その子どもたちの一言を聞いたとき、全てが救われたような気がしました。

あーきっと、僕はこの一言、この笑顔のために頑張ってきたのだと。

教師という仕事は今、敬遠されています。賢い人ほど、敬遠するそうです。いい人材が入らない現状があります。僕も自分自身まだまだいい人材だとは思えません。

それでも、実際に教師になって見えてくる世界もたくさんあるのだと感じました。

教師を志して、一年目に担任をした子どもたちと過ごした1年間は僕の誇りです。

2020年、コロナ年に採用された教師として 紆余曲折の日々    完

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