『歴史×トレイルラン〜明智光秀編』 敗走路という新しいトレイル遊び
新型コロナウィルスの影響でトレイルレースが中止となり、目標を失ったランナーはたくさんいると思います。確かに、トレランはレースという“ハレ”の装置が発展を支えてきた側面があります。
いえ、市民スポーツは全般的にレースやイベント・試合を中心に回ってきました。
レースなき時代の中で私たちは、どう楽しめば良いのでしょうか? そこで一つの解を提案したいと思います。方程式は『歴史×トレイルラン』。
『歴史は勝者のもの』
長きに渡って耳にしてきた言わずと知れた言葉です。私たちは教科書をはじめ、勝者目線の歴史を学んできました。一般的にはそれを"歴史"と捉えるのかもしれません。
一方で、例えば全国高等学校野球選手権大会の参加校は4,000を超えると言われ、1度も負けることなく甲子園で栄冠に輝くのはたった1校であるのと同じで、勝者の裏には必ず無数の敗者がいます。
戦いに敗れし者たちは、再起を願い、追っ手から逃げたわけですが、その多くは残党狩りにあって命を落としていきます。それを『敗走路』と呼びます。
ここで提案する敗走路は、主君・織田信長に謀反を起こした日本史上に残る『本能寺の変』を起こした明智光秀が主人公です。光秀は直後、豊臣秀吉と戦い、敗れます。
おそらく、歴史好きでなくとも『本能寺の変』は知っていると思います。では、その後の光秀がどうなったかご存じでしょうか? ここから明智光秀敗走路の物語が始まるのです。
今年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主役でもある明智光秀。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため収録を見合わせているため、放送を一時休止していますが、一足お先にクライマックスであろう『本能寺の変』の、その後の物語を歴史ファンタジーとしてお届けします。
敵は本能寺にあり!
1582年。光秀は、天下取りに邁進する主君・織田信長に反旗をひるがえすため、京都市の西、亀岡市にある丹波亀山城にて挙兵します。
3班に分かれた光秀軍のうち、主隊は保津峡の奥にある愛宕神社に立ち寄り、戦勝を祈願。嵐山を抜け、本能寺を目指しました。世に言う『明智越え』です。
この『明智越え』は亀岡市のHPを通じてハイキングルートとして紹介されていますので、興味が沸いたランナーは参照されたし。
当時、柴田勝家は新潟で上杉勢と対峙していました。信長の三男でもある神戸信孝は四国征伐の途上。そして秀吉は備中高松城を攻め落とすため毛利軍と岡山で交戦中。信長の家臣であるライバルたちは皆、遠くで敵と戦い京都を中心とする畿内はガラガラでした。
信長の死の一報が遠方で戦う者たちに届き、京都に帰ってくるまで1ヶ月は掛かると見込めば、京都で万全の体制を整えられると光秀は考えたことでしょう。
亀岡を出て3日後、信長が滞在していた本能寺に火を放ち、自害に追い込むわけですが、激怒した秀吉は緊急の和睦を取り付け、側近の軍師・黒田官兵衛らとともにわずか10日間で仇討ちのために京都まで引き返します。
「中国大返し」と呼ばれるこの離れ業の検証はNumberWebに掲載しているためここでは控えますが
秀吉軍の動きを耳にした光秀は、居城としていた琵琶湖畔の坂本城で急ごしらえに戦備を整え、秀吉を迎え討ちます。場所は、サントリーの工場がある山崎でした。
日本の歴史上、数々の古戦場として有名な天下分け目の天王山を舞台にした戦いは、秀吉軍の圧勝であっという間に終わります。ここから光秀の敗走が始まるのです。
ここで、戦国時代にタイムスリップした(という設定の)あなたに、この言葉を問いかけたい。
もしあなたが、明智光秀の家臣だったら、どういう敗走ルートを選びますか?
トレイルランナーとしての知識を総動員して、山崎から坂本城まで光秀を無事に届ける『歴史×トレイルラン』が幕を開けます。
坂本城を目指す3ルート
史実によると光秀は、山崎の北にある勝竜寺城に逃げ込み、夜の闇に乗じて、数名の家臣だけを従え大津市の北、坂本城を目指します。
勝竜寺城の東には川が二本。最初の川、桂川を渡ると、宇治川にぶつかります。現在の淀、京都競馬場付近です。光秀らは宇治川沿いを遡上。すると、山科川との分岐にさししかかります。
V字のその分岐を山科川側(写真左)に遡上。現在の醍醐駅手前で、地元民に襲われた光秀は自害したとされています。
現在、その自害した地は『明智藪』として、ひっそりと名を残していますが、もし、坂本城まで生き延びたとしたら、どういうルートを使っただろうか? それが歴史上存在しない『明智光秀敗走路』です。
この歴史ファンタジーには条件が2つあります。本能寺の変も山崎の合戦も世間には周知されています。敗軍の将の首を狩り、一攫千金を企む連中がウロついているため、目立ってしまう街中を通るわけにはいきません。
つまり、今で言うとトレイルを利用するしかありません。そしてもう一つは、できるだけ現在も通れるトレイルルートであることです。
歴史が終わった明智藪から坂本城まで、この条件で考えられるルートを私は3つ想定しました。比叡山ルート、比叡山手前ルート、音羽越えルートです。
<比叡山ルートの検証>
明智藪から北上すると伏見稲荷神社の裏に出ます(残念ながら現在は不通)。京都一周トレイルの東端になります。老舗レース『東山三十六峰トレイルラン』でも使われているこのルートをさらに北上し、比叡山までたどり着き、トレイルを東に下ると坂本城は目の前です。
闇夜の中、ほぼトレイルを使ってたどり着けるこのルートは最も合理的と言えますが、大きな難関が立ちはだかります。比叡山延暦寺の存在です。
本能寺の変の11年前、信長の命を受けた光秀は、延暦寺に火を放ちました。光秀は延暦寺を焼き討ちした張本人だったのです。
最も合理的なルートは、坂本城目前にして最もリスキーなルートに変貌してしまいます。果たして、延暦寺は光秀を受け入れ、敗走に力を貸すでしょうか? 遅からず秀吉軍の追っ手が来たとき、言い逃れできるでしょうか?
比叡山ルートは、延暦寺にとってもリスクの高い選択が迫られる危険なルートになります。
<比叡山手前ルートの検証>
では、比叡山を避ければ良いのではないか。比叡山手前で山を下ってしまう別ルートを検証してみました。
銀閣寺の脇を抜け、瓜生山付近にたどり着くとボケ谷と呼ばれる分岐があります。その分岐を北に進むと比叡山。右に折れると延暦寺をかすめるルートになります。下の写真がボケ谷の分岐です。
分岐を右に行くと、千日回峰行で有名な明王堂を通り、坂本城の手前で街に出てしまいますが、延暦寺のリスクはなんとか回避できます。ここは『比叡山インターナショナルトレイルラン』で一部使われているルートでもありますね。
だけども、延暦寺の中心(根本中堂)を通過しないとはいえ、延暦寺の敷地内であることに変わりはなく、光秀を無事に坂本城まで届ける命を受けたあなたは、このルートを選択しますか?
そして、心理的な要素も検証しておきます。比叡山に行くか行かないか、どちらを選択するにせよ、この敗走路は送り火で有名な大文字山を通ります。
大文字山からは京都市内が一望でき、数日前に謀反を起こした本能寺も眼下に収めます。その目線を西側奥に向けると、挙兵して立ち寄った愛宕神社の御神体である愛宕山を捉えることもできます。
この大文字山からの景色は光秀に、そして彼の敗走を手助けしている私たちに何を語りかけるでしょうか。
数日前まで天下だった自分が惨めに敗走をしている現実。敗走する光秀の心を察する私たちは「光秀公にこの景色は見せたくない!」と思うかもしれません。
<音羽越えの検証>
最後は、3つ目のルートの検証です。
自害したとされる明智藪の東側にも山域が存在します。現在の東海自然歩道です。今でもパノラマの景色を楽しむハイカーの姿が見受けられます。
ただ、このルートを選択すると、坂本城のはるか手前、大津に降りてしまいます。大津から北上する陸路は危険ですから、私なら、小舟に乗り、大津港から湖上を通じて坂本城を目指すでしょう。
醍醐寺で拝観料を払い、音羽山を目指してみました。京都一周トレイルに比べて、やや荒々しいトレイルは敗走感を高めてくれます。
アップダウンを繰り返しながら音羽山にたどり着くと、目の前には琵琶湖が現れるのです。私は思わず叫びました。
「光秀さま、琵琶湖です。坂本も見えます。もう少しです!」
挙兵してから断続的に続く高い緊張感と手負いで敗走する光秀にとって、親しんだ琵琶湖の景色は一抹の清涼感にも似た安堵する気持ちを与え、もう一踏ん張りだ!という新たなエネルギーに満たされたかもしれません。まるでフィニッシュ直前の最期のエイドステーションのように。
ところが、この音羽山から一望は360度の大パノラマ。愛宕山も、本能寺のある京都市内も、秀吉軍に敗れた山崎もまた同時に見渡せてしまう。
琵琶湖が見渡せる音羽山からの一望は、光秀に覚悟を決めさせるに十分でした。不思議と自分の脳裏に光秀のセリフが走ったのです。
「もう十分だ。これまでのこと感謝する。私は天命を悟った。君は坂本城まで落ち延びてくれ。そして、私を待つ家臣たちに伝えてくれ。達者でな」
映画『戦国自衛隊』のようにタイムスリップした私は、溢れる涙を抑えきれないまま、大津までの下りのトレイルを疾走することになります。歴史の渦に巻き込まれながら、図らずも主君となった明智光秀の敗走を、坂本城までお連れする命を達することなく。
編集後記
この『歴史×トレイルラン=敗走路』というトレイル遊びは、以前から温めていたもので、3/30に発売された『マウンテンスポーツマガジン トレイルラン 2020 春号』(山と溪谷社)で取り上げてもらいました。
取材に出掛けたのが2月だったので、まだコロナ騒動が本格化する前。当時は緊急事態宣言すら考えたこともなく、夏を前にして東京都が過去最多感染者数を更新するほど長い戦いになるとは思ってもいませんでした。
ただ、東京マラソンの縮小開催など、スポーツイベントの中止の足音がしていたこともあり、レースがなくなっても遊べることはあるぜ!という"希望"の気持ちをこの記事に込めていたのは事実です。
その辺の経緯をまとめたのがこちらです。
トレイルレースは、陸連や都道府県陸協が主催する"THE マラソン大会"とは違う手法で作られてきました。
顔が見える主催者。ボランティアや地元の人との近しい距離感。レース前にコース整備に通うランナーもいますし、前夜祭や後夜祭があり、"THE マラソン大会"にはないふれあいに惹かれている人も多いと思います。
さらに、規格化されたロードからはみ出したカウンターカルチャーの要素も含んで発展してきた側面もあります。どこか自由で、縛られない精神をまとい、それでいて讃え合うマインドを持ち合わせた。
しかし、トレイルランナーの母数が増え、レースも増えると、レース中心主義のごとく規格化され、そして、レースが消えるとポッカリと穴が開いたように目標を失う人が続出したのも事実でした。
レースは“ハレ”の装置として必要なものであることは疑う余地はないですが、レース以外に楽しむ選択肢をたくさん見つけて欲しいと同時に強く思うのです。
それはコロナ前から薄々感じていたことであり、コロナによって顕在化したに過ぎませんが、もし、歴史が好きという人は、『歴史×トレイルラン=敗走路』というトレイル遊びをしてみてください。
文献をあさったり、地図を見ながら妄想を広げたり、走りに行って検証する楽しさに気がついた方は、遠くないうちに開きたいくらいの敗走路サミットで、"俺の敗走路自慢"を言い合いたいです(笑)。
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