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ヘキサン

分液ロート、と言われてわかる人はどれだけいるだろうか。

分液ロートは主に、有機溶剤などによって、水から目的成分を抽出、分離する用途で使われるガラス器具だ。

化学の実験で使ったことのある人なら覚えているかもしれないし、私みたいに今も使っているなら、当然その形を思い浮かべるのは容易だろう。

その形は、にんじん、あるいは気球。気球の方が適切だろうか。
大きさはにんじんくらいだけど、形は気球という方がしっくりくる。

気球は文字にすると、気、球、なのか。
なるほど。

で、そのガラスの気球、の、膨らんだところ、の、てっぺん、に、円筒があり、上方に口が開いている。

円筒の中程には、空気穴が一つ、ある。
そして円筒には、これもまたガラス製の栓がはまっており、このガラス製の頭は、インドの宮殿の屋根みたいに、ポヨン、と丸みを帯びた形で、先端だけがちょこん、と、とんがっている。

なんでそんな形なのかは知らない。

さて、このとんがりから、気球のすぼまりきったところ、つまり人が乗ってるところ、ほんとにあんなものに人が乗るのか?

まぁ、そこにあたるところまでは20cmくらいで、その下には、コックがついている。

このコックを横から縦に捻ると、そこから下に伸びる3cmほどの長さの、極太の注射針のような管から、中の液体が排出される。
そんな構造になっている。

で、今、私の目の前で、その分液ロートが、箱型の機械の上に、5本ずつ並んで二組、互いにとんがり頭を向けて、修学旅行の大部屋よろしく、並んで寝かされている。

この箱型の機械というのは、自分の頑強な作りを自慢に思っているようなやつで、上部に分液ロートを乗せて固定する天板がついている。

そのどこか融通の効かない感じのする箱型ロボが、分液ロート5本二組を、一分間に250回のペースで、拷問のように激しく揺すっている。

一定のリズムで力を緩めることなく、頭上に掲げた天板を左右させている。

分液ロートの中で、水道水と、その10分の1量のヘキサンと、さらにその10分の1量の硫酸と、飽和量の塩化ナトリウムが、混ざり合い、荒れ狂い、グァッシャグァッシャ、と、音を立てている。

5分後、箱は運動をやめる。
私は、寡黙に拷問に耐えた、哀れなととんがり頭たちを解放する。

その体を起こしてみると、膨らみの中程までは、水が入っており、その上には、ヘキサンの層が薄く乗っかっている。

水とヘキサン層の境界面は、妖しく、メラメラと、静かに、ゆらいでいる。

水もヘキサンも無色透明の液体だ。
その境界に触れても、ほとんど何も感じられないだろう。

だが、確かにそこに境界は存在し、全く別の雰囲気の世界を隔てている。

この境界を渡っていけるのは、この場合をおいては、ホルムアルデヒドだけである。ただし水からヘキサンに渡れば、もう帰ってこれない。
コックを捻り、水だけを捨てれば、ホルムアルデヒドが濃縮されたヘキサンのみが残る。

今更ながら言うが、ホルムアルデヒドはこの一連の流れの抽出対象、目的の成分である。

つまり、ここでは、ホルムアルデヒドをめぐる騒動が繰り広げられているのである。

しかし、水道水の中に、ホルムアルデヒドが入っていることなどほとんどないのだ。

いるかもわからないホルムアルデヒドのために私は、とんがったターバン頭をとらえ、硫酸と過剰な量の食塩を飲ませたうえで、1250回の振とう刑を静観する。
それが私の仕事。

毎日グァッシャ、グァッシャ、と、繰り返している。

激しく頭をゆすってみる。

頭の中にもヘキサンが香る気がする。

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