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『大正処女御伽話』について

桐丘さな先生のマンガ作品、『大正処女御伽話』『昭和オトメ御伽話』が好きだ。

この二作品はそれぞれ単体としても楽しめるが、大正→昭和の順に時間が連続して流れていて登場人物も一部共通するので、合わせて読むのが面白いだろう。

(以下ネタバレあり、注意)

とりあえずここでは、『大正処女御伽話』の自己批判的なところについて述べたい。

『大正処女御伽話』では、主人公たちのささやかで平凡な幸せを壊そうとする"羅刹"として〈珠代〉が登場する。彼女には彼女なりの信条のようなものがあるのだが、とりあえず〈珠代〉はこの作品の題名でもある「御伽話」そのものを否定する役目を持つといえるだろう。

人と関わる事無く 衣食住の心配も無い そんな所でなら 誰だって心から 人を愛せるでしょうね 何てステキな世界 まるで 御伽話だわ
御伽話の出来事なら 愛なんてまやかしも 貫けるでしょうね

〈珠代〉は主人公たちの感じている幸福や愛を批判するわけだが、それはそのままこの作品自体への批判となる。「これはただのマンガ作品で、虚構の世界なの。ここに描かれている愛も虚構なのよ。現実にこんな御伽話なんてありえないのよ」と。

しかし主人公たち(〈珠彦〉・〈夕月〉)はその言葉に従うことはない。やはり、自分の大切な人とのささやかな幸せを守るために行動するのである。

物語ゆえのご都合主義といえばそうかもしれない。だが、幸福を追い求め続けること、幸福を追い求めようと執着し続けられることそのものが「幸福」であると、この物語の結末は言っているのだと思う。



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