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今日、誰かの「死」が誰かの「生きる」につながっていること

みんな知っていることだけど、あえて口に出さないこと。
それは生きているものはみんな「死」に向かって歩んでいること。
けど、毎日働いたり、家事育児、今目の前にある現実と向き合うので精一杯で「死」を考えながら毎日生きている人は多くはないと思う。
でも身近な人の「死」を目の当たりにすると、改めて「死」とは何か向き合うきっかけになる。

最近、大好きなラジオパーソナリティが亡くなった、という訃報が勤務中の私のスマホに届いた。
大学時代の友達の引っ越しがきっかけで、大阪に遊びに行くようになり、そのうちに関西独自の文化が好きになり、ラジコで大阪のラジオを聴くのが私の日課になった。
それまで、「北海道が一番」「生まれた場所が誇り」だった私が、関西を好きで居続けるきっかけともなった。

大阪のラジオは、関西弁トークが当たり前(当然なんだけれども)。北海道では聞けないきっついボケやツッコミが癖になってしまうほどおもしろい。

そのラジオパーソナリティの方は、大阪では知らない人がいないほど人気な方で、ちょっと気分が乗らない日でも思わず笑ってしまうような面白いトークを聴くのが、私の楽しみだった。

でも、最近はなかなかその方の声を聴くことができなかったので、「一体どうしたんだろ・・・」と思っていた矢先の、突然の訃報だった。

人の死、特に身近な「誰か」の死は当然悲しいものだ。
ましてや、若くして亡くなった方を思うと「まだまだやりたいことがあったはずなのに、死んでしまうなんて無念だったろう」というやるせない思いがあふれ出てくる。

昔、私の祖父が、
「死んだらそれで終わり、思いなんて残らない。肉体が亡くなったらそれで終わり。あの世なんてない。だから墓なんていらない」と母に言ったそうだ。

でも、それは絶対に違う、間違っていると母はいつも言っていた。
そんな母に育てられたせいか、小さい時から死生観について考えることは私にとっては特別なことでは無かった。

今、あるラジオ番組でその方を偲ぶ内容が流れているが、それぞれ思い出を語って、その方の発言や行動を思い出して笑ったり、時々、その方が生前書き綴ったメモを読みながら声を詰まらせて泣いたり・・・。

人は肉体がなくなったら終わりではない。
肉体は魂の入れ物、とよく言うものだがその通りだと思う。

人は死んだら終わり、ではない。
生きているその「誰か」に語り継がれ、その「誰か」記憶の中で生きる続けることができるんだと思う。

「死んで終わりではない」からこそ、自分に恥じないように精一杯生きないといけないと強く感じた。


















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