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病気になるとはどのようなことか〜<医>の概念工学(5):病気の「分断」モデル〜

これまでの議論と病い体験を踏まえて,「病気」というものを私なりに(削ぎ落とされるものの多きことは重々覚悟しつつも)図式化してみたいと思います。

1.病気の分断/不連続モデル


病気の「不自由感」


 まず病気になったとき,当然「めまい」「抑うつ」など症状そのもの,つまり「苦痛」が自分の中に新たに立ち現れるわけですが,それとほぼ同時に感じるのは,「今までできてきたことができなくなる」という機能不全でありそれに伴う「不自由感」です。ここで強調したいのは,この機能不全はさまざまなレベルで現れるということです。まず「食べられない」「一人で排泄できない」「立てない,歩けない」「眠れない」といった生命活動レベルから出発して,「買い物ができない」「散歩ができない」などの生活レベルから,「仕事ができない」「学校に行けない」などの社会・世界レベルまでそれぞれに多様な「できない」感が支配するのです。
 この3つのレベルは2001年にWHOにおいて採択された国際生活機能分類 (ICF:International Classification of Functioning, Disability and Health)にある,「心身機能・構造」「活動」「参加」の3要素におおむね一致すると考えていいと思います。
 この「Dis-ability としての病い」を米国の現象学者S.カイ トゥームズも「第一に、病いは能力の障害(dis-ability)であり、いつものように世界に関与することを 「できなくする(inability to)」 状態を意味する。」と位置づけています1)

病気のギャップ1


 この「できない」という感覚は,前述したように「今までできてきた」過去の自分と「今できない」現在の自分との間が分断されることにより生じる「裂け目=ギャップ」に由来します。これまではなんの考えもなく「食べる」「排泄する」「静かに過ごす」ことができていた過去の自分と,今の「できない」自分との間にギャップ(ギャップ1)が生じ,不連続となる。病気が私たちにもたらす最初の意味は,これまでの「機能」が失われて,過去の自分と「いま・ここ」の自分との間が分断されるといいうことです。

病気のギャップ2


 ギャップ1の発生とほぼ軌を一にして,「自分はこれからどうなるのか」ということが最も知りたいこととして脳内を占拠します。今までできてきたことが今はできない,ならばこれからもできなくなるのでは。自分がこの先どうなるかは誰にもわからない。未来は不確実である。当たり前のことですが,こと自分の身に降りかかるとになるとそれがまさにいま・ここの身体と未来の身体との分断として現れるのです。「このまま食べることも歩くこともできなくなるのでは」「家族との会話もできなくなるのでは」「仕事が続けられなくなるのでは」。さまざまレベルで,今の「できない」自分と未来の「予測できない」自分との間に大きな裂け目ができ,やはり不連続となります。ギャップ2です。

ギャップから湧き出る感情1=不条理など


 さて,次に扱うべきことは,こうした「機能不全」とともに生じるギャップ1,2から,さまざまな感情が上記の3レベルそれぞれで噴出あるいは析出するということです。まず「なぜこの自分が,この時期にこんな病気になったのだろう」という原因探しが始まります。その原因を逐一探し出そうと考えますが,いくら考えても100%納得の行く回答は得られません。と同時に,あのときもう少し早く検診を受けていれば,などという後悔と自責の念が襲ってきます。後悔と自責はいくらしてもしきれない,そしてついに自分が今この病気になることの「不条理」を嫌というほど味わうのです。不条理は言ってみれば,「今までできてきたことが,なぜ今ここでできなくなるのだろうか」という,過去と現在の自分を対比した結果生じる,つまりギャップ1に起因するどうしようもない感情です。
 またその他の感情も湧き上がります。日常生活レベル,社会生活レベルにおいては,今までこれだけのことができてきたのは,いろいろな人に支えられてきてのものだったのだということに気が付きます。さらにこれまで当たり前に思えてきた日常生活の些細なこと,例えば歯を磨くことにしても,靴を履くことにしても,それら一つ一つが非常に大切で愛おしいもののように思えてくるのです。こうした感謝の念や,日常への愛おしさなどもギャップ1から主に析出する感情と言えます。(日常への愛おしさの気づきは病い体験の意味として非常に重要に思えます。これについてはまた別の機会に述べます。)

ギャップから湧き出る感情2=不安など


 一方,ギャップ2から湧き出る最も強力な感情は「不安」です。この先どうなってしまうのかわからないということは,「この先入院が必要なほどなのだろうか」「もしかして最悪の結果が待っているのではないだろうか?」などのさまざまな程度の「不安」を巻き起こします。これはとにかく真っ先に知りたい,そして解消したいこととしてたち現れます。不自由感が過去を振り返っての現在の感覚であるとすると,「不安」は未来に対する現在の感覚といえます。そしてこの不安はやはり,上記3レベルでさまざまな形で現れますが,最も深刻な形は生命活動レベルにおいての生命の危機すなわち死の恐怖として出現します。また日常生活,社会生活のレベルだと「家族や同僚に迷惑をかけてしまうのではないか」という罪悪感や,仕事の流れや世界の動きに遅れてしまうのではないかと焦燥感孤立感というものへと発展します。
 自ら病者であり哲学者のハヴィ・カレルさんは,病いで体験する身体に対する疑念(Bodily doubt)として,今見てきた身体の連続性や継続性に対する疑念を上げており2),このギャップ概念に通じ論考を提示しています。そしてこの疑念は,たとえ病気が回復したとしても人間の実存そのものが変容してしまい不可逆的なものだと指摘しています。確かに前述した不条理感も不安も,考えれば考えるほど正解にはたどり着けない,むしろ堂々巡りとなる無限連鎖的問題であり,修復の非常に難しいものだと言えます。

これらをまとめたのが病気の分断/不連続モデル(図1)です。
実際には各レベルごとにギャップ1,2の分断/不連続の程度に差がありそれが各人異なる病気の様相を呈する事になります。
ちなみに,がんのときに激しいうつ状態になりましたが,このときはすべてのギャップ1,2が完全に閉ざされた感覚になったのでした。

図1. 病気の分断/不連続モデル


2.病気の分断/人称モデル


1人称ギャップ


 さて,今まで述べてきた分断/不連続モデルが,過去,現在,未来への至る直線的な時間軸に沿った視点であるのに対し,もう一つ別に空間的な「人称」という視点を導入してみたいと思います。
 小脳梗塞の病床でまんじりともせず数日が経過したとき,枕に頭を付けている自分の左下斜め45度あたりに,「高速ランダムめまいで苦しんでいる身体」がイメージとしてもやっと現れてきました。自分の中に「病める身体」,すなわち他者が立ち現れる,そんな感覚です。そして同時にその身体を客観的にながめ,こうなった原因やこの先の見通しを考えている「冷静な身体」が頭の上の方にあるような感覚を覚えました。この心身(身身)分離の感覚は床に臥せってる間何度も湧いてくる脳内イメージのようなものでした。
 一方,胸腺癌のときは,癌の場所が「胸腺」という体の真ん中前の方であったこともあって,荒木飛呂彦さんの超名作「ジョジョの奇妙な冒険」で登場する「スタンド」が,病気として自分の体の少し前に分離しながら現れているというまさに奇妙なイメージを持ったのです。病める身体,すなわち「いま・ここの身体」と,考える身体,いわば「精神としての身体」。この2つの身体間の裂け目(ギャップ)がまさに見えるように思えたのです。この自己内部でのギャップは前述の時間軸でのギャップ1とギャップ2とが密接に絡み合って今の自分の中に現れたものと考えることもできます。前述の「不条理感」は,この1人称ギャップからも生じるように思われます。

「病気はスタンドである」 荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」より


2人称ギャップ


 自分一人の内部での視点とは別に,「家族,友人,医師などからみた自分」という視点を取った場合でも,言いようのないギャップを感じます。以前書きましたように,小脳梗塞のときは,後頭部から上半身全体に得も言われぬ「もっさりとした感じ」が出現したのですが,この感覚は「もっさり」という言葉を口にした瞬間に,それではないという違和感を生じます。同時にいかに言葉を尽くしても,「今の自分のこの苦しみや痛みの「感じ」が誰にもわからないし完全に伝えるのは不可能ではないか」という絶望感や孤立感を味わったのです。これは友人や医師の視点から自分を見つめたときに生じる,わかってもらえないだろうなあという感情であり,2人称ギャップと名付けます。

3人称ギャップ


 急性期を脱してくると,自分を客観的に見られるようになることがあります。自分を外側から,これからどうなるのかという一歩離れた視点から眺めてみる。たとえば私は,仮にも医者ですので,椎骨動脈解離を起こしたら,あるいは癌になったら治療法は何があって,それぞれのリスクベネフィットはどうでとあれこれ情報収集しながら考えます。ところがこの第3者的立場は特に急性期の場合,なかなか取ることが難しいのです。医者の立場ではそれを確率として客観的に捉え患者さんに伝えるわけですが,いざ自分が患者のみになると,確率はあまり意味を持たないことに気付かされます。化学療法を行った場合の5年生存率は○%と言われても,自分はその100−○%の方に入るかもしれない。この「自分」がこの先どうなるかは誰にもわからない。客観的な事実と,唯一無二である自分自身との間に不確実性というギャップが生じる。これを3人称ギャップと呼びましょう。

 これらをまとめたものが病気の分断/人称モデルです(図2)。機能不全が強いほど,2人称,3人称の視点はとりにくくなります。3人称的視点を持てるかどうかが,じつは自己一貫性を保ち1人称あるいは2人称ギャップを埋める鍵となるように思われます。
 ちなみに認知症の人というのは,この1人称ギャップをかなり感じている反面,相対的に2人称,3人称的視点を持つことが困難な場合であると言えるかもしれません。

図2, 病気の分断/人称モデル


3.病いのステージとギャップ(図3)


 さて,こうしたさまざまなギャップは,病気の進み具合とともにダイナミックに変化していきます。特にこのモデルの核心とも言うべき1人称ギャップについて見てみます。前述のように,平常時に精神と身体はぴったりと重なっていたのが,病気になるといまこ・この身体を,病める身体,あるいは他者として意識するようになります。このとき精神としての身体は,この先自分はどうなるのだろうと未来の自分を「予測」します。英国の神経科学者カール・フリストンは,脳は「予測する臓器」であり,人間の脳は,予測される事態と現在の事態との差を「予測誤差」とみなし,それを常に最小化することを目指すという「予測符号化理論」を提唱しています。このモデルは病気についても多くの示唆を与えてくれます。病初期の混沌とした状態では,予測はさらなる悪化の状態,すなわち死を含む今より悪い状態を想起しがちです。その後身体機能の回復につれて予測は,今の状態より良くなる方向へと変化しますが,このとき予測は病気以前の健康な状態というよりも,今の状態から類推して「このくらいでいいか」という,以前のレベルには完全に服さない状態でとどまることを許すのです。身体の回復具合に応じていま・ここの身体と予測され精神としての身体が折り合いがつくレベルで再接着し,病める人も安定するのです。その意味で病気からの回復は「完全な正常化」ではなく「最適化」であると言えます。

図3. 病気のステージとギャップ


4.図式化のまとめ


 これまでのことをまとめましょう。 

  •  病気になると「苦痛」とともに「〜ができない」という機能不全と不自由感が襲う。それは「今までできていたことができなくなった」という過去と現在とが分断されギャップ1をもたらし,さらに「これからできるようになるのだろうか」という現在と未来との分断=ギャップ2を惹起する。(病気の分断/不連続モデル)

  • ギャップ1からは不条理が,ギャップ2からは不安を主体とするさまざまな感情が析出する。これら2つのギャップは,現実には「生命活動」「日常生活」「社会生活」の3つのレベルにおいて発生する。

  •  いま・ここの身体というものを精神(1人称),他者(2人称),あるいは世界(3人称)のそれぞれの視点からみた場合,それぞれにギャップが生じる。

  • 病いからの回復とは,そうしたギャップは狭められ,精神としての身体といま・ここの身体が再接着ていくことであるが,その着地点は元通りのレベルではない事が多い。すなわち正常化でなく最適化である。

 病いとはこのような,自己とその周辺を取り巻く時間的空間的な「分断」であり構造である。これが病気になるということの私なりの暫定的な意味です。

※さらにいえば,こうした裂け目=ギャップというのは,は,フランスの精神分析家ジャック・ラカンの「現実界」,あるいは大哲学者イマヌエル・カントの「物自体」に相当するもののように思っています。なので,認識することは不可能に近いかもしれないが,病気になったときに垣間見ることができるものなのかもしれません。そのへんの哲学的考察はまた別の機会に。。

こうして病いというものを構造的に把握した場合,たとえば,病いの意味を患者さんから引き出すアプローチの対象である”FIFE”も,単にマニュアル的に聞くのではなく。「機能不全感」→「不条理,不安などの感情」という図式や,「医療者への期待」「病気の解釈」というのは,2人称または3人称視点から生じるのである(図2)ということを把握すると,より理解が深まるものと思われます。

さて,「分断」モデルはこれだけでは終わりません。病いの人に生じるこれらのギャップは,各レベル各ステージでさまざまな程度で現れ時に非常に強固なものです。しかしながら病者においては,これらの裂け目をどうしても「くっつかせたい」「再接着されなければならない」という力を誰しもが持っているということに目を向ける必要があります。英国の家庭医療学Joanne Reeveは,病める人というのは,日常生活の絶え間ない川の流れ(Flow of daily life)を漂うものであると表現しています3)。私たちは,今日の生活をできる限り昨日までと同じように維持したいし,また明日からも今日までと同じ日常が続くことを願っています(高齢者ほどそれが強くなります)。

次回では,この「再接着」について,医療者の役割論を交えて考えてみたいと思います。


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