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カメラとは、写真を撮る機械です・・・  兼旅行編 完結編(後編)

撮る事へのこだわり

長きに亘った今回のシリーズ(2編)、いつ終わるとも知れず自分でも書きながら方向性を探していました。時に迷走し、変に長々と説明ばかりになっていく状況が、私の悩みを表していた気がします。

そんな私も、今は完全とはいかないまでも心が少しだけ晴れているように感じています。沖縄は丁度梅雨明けでしたし・・・?

えーと、なんでしたっけ?あれ?またまた脱線気味ですね。
はっはっはっ(汗)
その、あの、えー・・・、とっとにかくですね、なんとなく「カメラ」と「写真」が以前のように、同じ意味を持つようになってきている今日この頃でした。てっ強引なまとめ方!

閑話休題

「写真」を撮る事が大好きで、当然「カメラ」を手にする。撮りたいものを撮りたいように撮る。
この当たり前のことが実は大変なのです。前述したように、「写真」歴が無駄に長くなると、それが「カメラ」歴になり、御託を並べた変に小難しい「写真」を撮るようになってくるのです。これは私に限ってのことかもしれません。でも、ごく少数の読者の皆さんの中にも、同じような経験をお持ちの方がいらっしゃるのではないでしょうか。私だけだったらごめんなさいです。

撮る事へのこだわりは、実はシンプルな事だと気付きました。
目の前にある景色が「きれいだ」と思えるか、なんとなく「渋い画になりそう」と感じるか、後日「記録」として見直して見たいか、素直に感じることが出来れば、それが「撮りたい」という「こだわり」なんだと思います。

水平、垂直の補正もしていません。本当の撮って出し

「カメラ」のセンサーサイズについて以前書きました。なんとなくフルサイズに拘っていることも書きました。でも「LX3」を使ってみて私の拘りがなんとちっぽけな思いだったかを思い知ることとなり、まさに今、私は目の前が曇り空から徐々に晴れてくる様子を眺めつつ、気持ちが軽くなって行く事を実感として感じています。

金属の塊、その質感出てますかね?

これからは「撮りたいモノを撮る」、感じたままにシャッターを切る、とは言っても芸術家肌でもなく職人気質でもない私に、目の前のものに何か感じ取れるかは、少々の不安材料として残る気が・・・。

ふう、休憩休憩!

今回で2編の最終回となります。
次回はいつ何を書くのか、はたまた書けるのか心もとないところはありますが、よろしければご期待ください。それでは次回まで!

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