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価値観のアップデートに潜むバグ

アップデートの催促スパム

「価値観のアップデート」という言葉を最近よく目にする。主にSNSやメディアにおいて、旧来的な思想や常識から脱却し、新しい価値観へ移行を礼賛する言葉としてよく用いられている。

個人的には、この言葉はあまり好きではない。職業柄、よくソフトウェアやサービスにアップデートを施すのだが、どんなに品質管理や精査を行おうと、何らかのバグが混入するという、苦い経験を重ねてきたからだ。

内容によっては、アップデートを全てオミットする事もあるし、ユーザーから「前のほうが良かった」とアップデート内容を全否定されることもある。いざリリースすると、認識していなかった機能への影響があり、システムに深刻な被害をもたらしたケースも存在する。

アップデートとは単なる明るい革新ではなく、必ずしも良くなるとは限らないリスクを伴う変化、というのが個人的に思うところだ。

しかし、メディアは「価値観のアップデート」をまるで新時代の正義と常識かのように繰り返し報道している。加えてSNSでも他者にマウントを取るときに「価値観が古い。アップデートしなさいよ」と使われるケースも多い。不毛なレスバトルの後や気に入らない事象に対して「価値観をアップデートすべき」と捨て台詞が吐かれるのも、もはやお約束とも言える。

そんな昨今を眺めていると、つい新バージョン配布後に「早くアップデートしろ」としつこくメッセージを出していた某OSを想起してしまう。

くわえて、そもそもメディアやSNSで私達が信望する「価値観のアップデート」に対して、どうも気持ち悪さというか居心地の悪さを感じているのがある。さながら、本番適用直前のリリースブランチのコミットログを眺めていて、ぼんやりと覚える違和感と似たものがある。

保守的、老害、後進的、と言われるとその通りだが、何にせよ拙速なアップデートというものには、今ひとつ賛同できない質なのだ。

アップデートの名を借りた何か

そもそも巷で語られる価値観のアップデートとは、本当にアップデートなのかいつも疑ってしまう。

価値観とは絶対的なものではなく、時代と人と場所によって相対的に変容していくものではある。一つの価値観に縛られる事なく、柔軟に変化させていく事については概ね賛成なのだが、昨今語られる「価値観のアップデート」にはどうも矯正と同調圧力を感じてならない。

というのも、SNSにおける意見交換の大半は、相反する人への罵倒と敵愾心が行動動機に据えられていることが多い。ある価値観を世の中に浸透させ、社会的合意を形成していくためには、地道な啓蒙と建設的な意見交換、そしてトライ&エラーを繰り返し価値観をブラッシュアップしていくことが重要なのだが、SNSにおいてそれが成されることは稀である。その価値観を共有する人同士が群れて、そうではない人を罵倒し嘲笑し「後進的」「老害」「悪」と断じ、楽しく異論者を殴打する私たちの姿がいつもそこにある。

また、SNSだけではなくメディア等の報道もそれに近いものがある。価値観のアップデート、多様性の尊重…等と美辞麗句を謳うメディアは多いが、その中身は特定の価値観への単一性に依っていることが大半だ。

この方針を取っている以上、その価値観を世の中に広く浸透させるには、いかに異論者を封殺するかでしか成されないのだが…それは一種の全体主義であり、単一性の押し付けのようにも見える。

「これは正しいんだから、いいから世の中はこうしろ」、それはアップデートなのか…と考えると、個人的には大きな疑問を感じる。ようはレビューも指摘による修正対応もないコードを本番環境に適用する…アップデートではなく、単なる暴走にも見える。

「こういった考えはどうか」「こういったやりかたもあるかもよ?」といったような問題提起の形ではなく、一方的な価値観の押し付けが果たしてアップデート呼べるのか、それについては甚だ疑問だ。

コーティングされた欲求

結論から言ってしまうと、それはアップデートではなく、単なる枕詞のように捉えて良いと思っている。

SNSでは建設的な議論が行われることは稀で、皆自分という独裁者による他者への押し付けが大半である。そんな中で最後に語られる「アップデートすべき」というのは、いわゆる「私の考えに従いなさいよ」という意味を込めての枕詞に近いのだと思う。

自身の考えの正当化にもつながるし、いかにも社会や世の中を鋭く見ていますアピールもできる。自分は真理を見ていて、それを理解しない周りを正しい方向へ導かなくてはいけない…という独善的な欲求にも寄与するし、社会のためという建前を据えれば美辞麗句に共感した人がイイネしてくれて、高揚感も得られる。

自己陶酔と承認欲求に狂う私たちにとっては、この上ない枕詞なのだ。それが正しいか間違っているのか、本当に世の中を良くするのかどうかは関係なく、無責任に自己に狂う欲求を美辞麗句で包んだもの。それが「価値観のアップデート」というように感じてならない。

そう考えると、日々私たちがSNSで嫌いな相手や相容れない価値観に、好んで投げつけているのも納得する。ましてや世論を誘導し敵を作り上げ、オオカミ少年として騒ぐマスコミにとっては、この上ないキャッチコピーなのだろう。

なんのことはない、自正当化するための枕詞だと考えると、アップデートというおおそれたものと考えるのが少々馬鹿らしくなる。

レビューの不在と拒否

ソフトウェア開発的な話にはなるが、アップデートには必ず何らかのレビューが存在する。新たに追加したり修正したプログラムが、果たして適用に足るものなのか、といったものをチーム内で議論する場である。

筆者もこのレビューというのを日々日常的に行っているのが、自身の組んだプログラムというのは、自分が思っているほど完璧ではなく、拙いものなのだと思い知らされる。

時間を掛けて作り上げた自分の中の「正しい」が否定されるのは気持ちが良いものではないが、バグを本番環境に仕込み、後に多くの人に不利益と労力を強いてしまうよりはずっとマシである。むしろレビューをしてもバグが僅かに流入してしまう事もあるのだから、レビュー無しでの本番適用は恐怖でしかない。

SNSやメディアが酔う「価値観のアップデート」とやらには、そのレビューが存在するのか。そしてそのレビューを受け入れる度量が、メディアやSNSでの発信者に備わっているのかは、甚だ疑問である。



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