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だから私は「フェミニズム」を嫌う

フェミニズムとの出会い

フェミニズム、と言われて想像するものは何か…おそらく人によってポジティブ・ネガティブ様々なイメージ像が語られるだろう。

好意的な印象を語る人も決して少なくはないだろうが、2022年のSNSにおいてフェミニズムへの好意的意見はどちらかというとマイノリティであり、批判的な意見の方が多く目につく。新聞やテレビといったオールドメディアによるフェミニズム賛美や擁護肯定の多さに比べると、非常に対照的だろう。

私自身、正直フェミニズムは嫌いである。

誤解のないように言っておくが、男女平等には概ね賛成であるし、性別的な括りによるジェンダーロール前提の社会構造は、非効率かつ辛いだけだと思っている。

現代社会は良いことばかりではなく、大変で辛く不自由も理不尽も多い。だから性別という括りに拘らず、個人の資質や適性、意欲や能力で役割を分担し、皆で楽して自由に生きる社会のほうがずっと良い。性別とは、あくまでも単なる生物学的な括りであって、社会的な役割を定めるものではない…と今でも強く思っている。

フェミニズムとの本格的な出会いは、大学の頃に遡る。一般教養科目として単位目的に履修した「歴史学」が、いざ臨んでみるとフェミニズムに強く心酔する教授による「女性史学」だった事が始まりだ。

当時の自分は「まあ単位取るために受けておこう」程度に受講を進めていたのだが、講義の中で学ぶフェミニズムの様々な側面に「なるほど…こういう見方もあるな」と強く学ぶことも多く、中盤以降はかなり積極的に臨むようになっていた。

特に平塚らいてう、与謝野晶子による母性保護論争について知ったときは、これまでのフェミニズムのイメージとは違う内省的かつ真摯な議論に感銘を受けた。「男性が大嫌いで、性的表象を毛嫌いする、感情的で一方的で口煩い潔癖主義で面倒な人達」というフェミニズムのイメージは払拭され、むしろ心から賛成出来る思想とまで思っていた所もある。

男女平等で選択肢のある社会、性別という括りで差別を押し付けられることのない社会。それには大いに賛同出来る。それは今でも変わらない。

しかし今の私は、フェミニズムが大嫌いである。


SNSによって浮き彫りとなった「フェミニズム」の実像


フェミニズムが明確に嫌いになったのは、おおよそ2010年代中頃だ。当時はインターネットによるコミュケーションの形が従来とは大きく変わり、普通に生きているとまず関わることの無い人々の意見や考えが、様々な垣根を超えて短文で飛び交う…非常に自由で手軽な言論空間が形成された。SNSの隆盛時期である。

私自身Twitterを始めたのはおよそ2011年頃で、当時は、くだらない日々の日常を共有しふざけ合う牧歌的な言論空間だった。

しかしユーザーが増加するに伴い、牧歌的だった言論空間にも政治や社会問題を強く論じるユーザが流入し始めた。そして国会やマスコミもSNSによる反応を注視したり取り上げたりと、SNSは「世論」の一部として昇華されていった。

私自身、当時はフェミニズムにある種賛同していたところもあったので、SNSでもそういった系統の人達と緩く繋がっていたのだが…。フェミニズムに心酔し「フェミニスト」を名乗る人達の実像は、フェミニズムへの賛同と肯定を大きく覆すものだった。

始まりは、伊勢志摩のご当地萌えキャラ、碧志摩メグの一連の騒動だった。内容は「性的で女性蔑視。抹消せよ」というフェミニスト達の怒りの批判により、抹消までは行かなくとも結果的に市公認撤回となってしまったという、昨今ではありがちなフェミ焚書である。

当時の自分としては「いや、何が女性蔑視なんだ?」と強く疑問だった。男性女性関係なく性別の持つ美をコンテンツとして謳歌することは、たとえそれがアイコニックだったとしても、自由で開放的な価値観とも取れるだろう。

それは選択肢を広げるフェミニズムとして何も間違ってない…と強く疑問に思っていたのだが、周りのフェミニストたちはそうではなく「キモい」「不快」「許せない」とただ感情的に毛嫌いする人達ばかりだった。

中には何が駄目なのか、というのを論理的に記事にしたり論じたりする「フェミニスト」も多かったが、どれもかなりの個人的嫌悪が絡んでおり、「公共の場に不適切」「子どもに悪影響」「偏見を煽る」といった根拠のない一方的な主観をそれっぽい言葉で包み隠した、父権的かつ保守的な価値観の押し付けだった。

そしてそれに疑問を呈する私は「表現の自由戦士」と嘲笑され、フェミニストから指を指される立場になってしまった。

それからも似たようなフェミニストによる表象弾圧は毎年のように何度となく巻き起こる。最近ではVtuberの「戸定梨香」が、松戸市のフェミ議連から「女性蔑視」と批判され、削除を迫られる自体も発生した。

その度に疑問を呈する私は、すっかりフェミニストたちからは嫌われる「表現の自由戦士」だ。

不自由で理不尽を強いられ抑圧される仕組みを改善し、男女関係なく生きやすい社会を目指す…そんなフェミニズムはそこにはなかった。

あるのは、一方的な価値観で表象を叩き潰し、不快なものを排除し、「反ステレオタイプ」と言う名のステレオタイプを押し付け、レッテルを貼り選択肢を狭める、不寛容で父権的で不自由な価値観、そしてミサンドリーの掃き溜めだった。

それはまさしく、一度払拭した「男性が大嫌いで、性的表象を毛嫌いする、感情的で一方的で口煩い潔癖主義で面倒な人達」というフェミニストのイメージと実像がリンクしていた。


それを成す大多数の性質が、それ自体と成る

これまでフェミニスト達の言説は好意的に取り扱われる事が多かったが、昨今ではいよいよフェミニズムへ「反撃」を行うケースも増えてきた。

先述の戸定梨香氏については、批判された間もなく事務所が明確に反論し「それこそレッテル貼りではないか」と臆しない姿勢を見せている。そして批判を行った松戸市のフェミ議連には、数多くの抗議が寄せられている。

また昨今の一部業界では、こういったフェミニストたちによるクレームを「貴重なご意見」として形だけ受け、実質無視するというケースも珍しく無い。

これまで一方的にフェミニズムを賛美していたマスコミも若干変容し、そもそも記事に扱ったりしないケースまでも出てきている。妄信的にフェミニズムを賛美するのは、もはや朝日新聞やハフィントンポスト、東京新聞といった「いかにも」なメディアくらいだろう。

こういったバックラッシュに対し、フェミニスト側も思うことがあったのか、「フェミニズムはミサンドリーや分断を煽るものではない」と弁明する場面も出てきている。

言ってることはごもっともである。確かに本来のフェミニズムは、今ネットを席巻する「フェミニズム」とは違う側面も多いだろう。

しかし実際、彼等の言う「本来のフェミニズム」に忠実なフェミニストは、言論空間においてどれぐらい居るだろうか。少なくとも私からは見える、SNSやメディアで発言するフェミニスト達はそうではない。一方的な価値観で表象を叩き潰し、不快なものを排除し、レッテルを貼り選択肢を狭める、不寛容で父権的で不自由な価値観、そしてミサンドリーの掃き溜め…私にはそう見えてならない。

「それらは本来のフェミニズムではない」と言ってしまうのは簡単だが、現実はそうではない人が視界に入るフェミニストの大半を締めている。ゆえに、それが今の「フェミニズム」と思ってしまうのも無理はないだろう。

無論「それこそ一方的で主観的だ」と言われるとその通りだ。故にお互い様ということで、私は自身の主観を今は信じることにしている。

今のフェミニズムは選択肢を狭めている
だから私は、フェミニズムが大嫌いである。


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