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臆病な踊り子


本番直前、ステージの袖から舞台を見つめている時間が好きだ。暗転した舞台、音楽が流れ始める前の静寂、小さく光るバミリの蛍光色。

この数秒の間に感じる胸の高鳴りを抱えたまま、わたしはステージに上がる。音の響き方も照明もまわりを取り囲む景色も、練習とはぜんぜん違う。特別な空気感の中、夢中になって踊る高揚感に、わたしは虜になっている。


わたしがダンスを始めたのは、小学2年生のとき。昼休み、教室の後ろでダンスの練習をしている友だちを見て、楽しそう、わたしもやりたいと思い、すぐに彼女たちと同じダンス教室に通い始めた。音に合わせて踊るということが好きだったのだろう、どちらかといえば飽き性なわたしだが、今年で21歳を迎えるいまもダンスを続けている。

わたしは今、大学のダンスサークルに入っている。新年度になって代替わりをし、わたしたちの代が作品を作る年になった。曲選びから構成、振り付け、衣装、そして照明まですべてがセルフプロデュースで、つまりは世界観と、それを表現する技術が試される。

わたしは、自分の世界観を他人に見せることが少し怖い。

完成したものを見てもらうのもそうだし、踊ってくれるダンサーに振りを教えるときも、とても緊張する。わたしよりもずっと上手いひとに教える時はなおさらだ。自分がいいと思ったもの、形にしたくて頑張って作ったものをひとに見せて、否定されたらどうしよう。

作品のコンセプトはそのひとの感性から生まれ、感性とはこれまでの人生で培われてきたものであり、人間性である、とわたしは思っている。だからわたしにとって、作品を否定されるということは、その作品のコンセプト、つまりはわたしそのものを否定されている気がしてしまうのだ。逆に褒められれば飛び上がるくらい嬉しいのだが、褒められると思えるほどの自信はない。わたしは臆病者だから。

自信がないのは世界観だけではない。わたしはこれまでの人生で10年以上踊り続けてきたくせに、ぜんぜん踊りが上手くない。続けてきた年数と技術がまったく見合っていないことが、ずっとコンプレックスだ。あまりにも自分のダンスに自信がないから、わたしは自分のことをダンサーだと名乗れない。このnoteの冒頭でも、わたしはダンサーだ、といえなかった。ダンサーだと名乗る勇気とプライドを持てる日が、いつか来るのだろうか。

と、こんな風に自信は全然ないけれど、踊ることはずっと好きだ。いまはサークルの自主公演に向けて作品をつくっている途中である。この文章は、作品を作ること、自分の世界観をひとに伝えることの恐怖を残しておきたくて書いた。公演を終えた未来のわたしがこの文章を読み返して何を思うのか、すこし楽しみでもある。


いつか、踊ることの楽しさについても書いてみたいと思う。

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