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他人の人生が気になった時、読んで欲しいnote

「因果」と「果因」

たとえば、自分に子供がいたとして、朝から晩までスマホ漬け、ゲーム漬けのような毎日で不安に感じてしまったとします。一日中時間があれば部屋に閉じこもって小さな画面とにらめっこしているわけです。このまま行けば、成績も悪くなるし、良い進学先にも行けないかもしれない。不安は募るばかりです。
そんな状況で、親は子どもに対してどう働きかければ良いのでしょうか?

この問いは、以前、京都にある実験寺院 寳幢寺の松波龍源先生と対談をした際に、具体例として投げかけたものです。

この問いに対する龍源先生の答えは…

「親自身が今を生きなさい」

というものでした。

え、どういうこと?って思いますよね。

ちょっと補足しましょう。
結局幸せというのは、他者が判断するものではありません。
幸せの理想形はこういうもの、という第三者的定義があるわけでもない。だから、「今が幸せではない」とか「このままだと不幸になる」と他者が判断して介入するというのは、余計なお世話でしかない、ということです。

そして、もう一つ忘れてはならないのは、「因果」の逆である「果因(がいん)」という考え方です。
普段、私たちは何かをやれば結果が出る、という時間軸で考えます。これが「因果」の流れ。当たり前ですね。

しかし、結果が出たことで初めてその要因が決まるという逆のロジックもあるのです。
たとえば、受験に成功したという「結果」が確定したことで、あの予備校を選び、あの先生の授業を選択したことは良かったという「原因」が定まるわけです。
原因と結果なんてものは、条件を固定したような研究レベルならまだしも、日常生活レベルではどれだけ精緻に考えようとしても理解することはできません。
だからこそ、結果が決まったところで、原因が決まる…という認識が成立するのです。

つまりは、無条件で良い行為があるわけではない。結果によって意味が変わってしまうくらい脆いものなのだ、ということです。

だからこそ、私たちの過去は変えられるのです。「今」の結果によって、過去の意味は変わっていく。もし今、まさにたった今、この人生を好転させられれば、悲惨な過去は全てオセロのように「意味があった」という評価に転じさせることができるのです。

「今を生きよ」と龍源先生が語る訳はここにあります。
今を肯定できれば、目の前を通り過ぎていった全ての過去の意味は変わるのだから。

つまり、目の前の子どものスマホ漬けの行為は、勝手に他者が現在の視点で評価できることではないということ。
そして、その子が後から振り返った時にその行為の意味がわかるのです。
だからこそ、親としての自分ができることは、結局今を生きることしかない、ということなんです。

他人の人生を生きることはできない

…でも、ちょっとわかったようでわからない話ですよね。親としての自分が今を生きたとしても、子どものスマホ漬けの行動は変わらないわけですから。

「今を生きる」ってどういうことなんだろう?その疑問は残り続けました。

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