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違和感に「怒り」を混ぜてはならない

先日、『「能力」の生きづらさをほぐす』の著者である勅使川原真衣さんと対談する機会に恵まれた。

この本は、私たちが疑問を持たずに信じている「能力」という概念に対して、鋭く、そして軽やかに違和感を投げ込むものだ。
読んだ人は、そのラディカルさとポップさの両極の板挟みになり、読後はちょっとした戸惑いを覚えるテイストに仕上がっている。
組織開発の可能性を伝える骨太なメッセージを伝える一方で、自分の死後の世界における家族対話のストーリーという奇抜な(笑)形式を選ばれていて、いろんな意味で、ユニークな本と言えると思う。

さて、今日僕が語りたいのはこの本のメッセージについてではない。
メッセージも十分面白いのだが、今日語りたいのは、勅使川原さんの語り口についてだ。

こういうラディカルな問いを投げる時、僕たちは無意識のうちに声を大きく、鋭くしてしまう。そうしなければ問題意識を持たない人の注目を集めることはできないからだ。
だから、根本的な思想の転換を促す活動は、徐々に激しさを増していく。
環境活動家や平和主義を掲げている人が常軌を逸したような行動を見せるのもその辺に理由がある。加速度的に刺激を強くしてしまうのだ。

しかし、悲しいことに、激しさが増せば増すほど、その声は届きにくくなる。
なぜならば、そこに「怒り」のニュアンスを感じ取ってしまうからだ。

怒りというのはちょっと厄介な感情だ。
対話の中で怒りの感情が出てくると、受け取った相手はそこから議論を深めることは極めて難しくなる。

たとえば、冷静に「人々が環境に対する働きかけを行動に表せないのは、何がストッパーになっているのか?」という内省をしている人との議論は成立しそうだが、「環境活動に参加しないケシカラン奴らをどうやって消し去ることができるか?」みたいな怒気を含んだ問いを持った人とはフラットな対話は難しいと感じるだろう。

怒りを目の当たりにすると、受け手はどうしても防御的な反応になるからだ。
つまり、健全な議論をする気持ちは失せ、距離を置くか、相手の怒り以上の強い否定で身を守るか、という反応になってしまうのだ。

僕たちの心の中において、「違和感」という感情は、「怒り」という感情とご近所さんの関係にあるが、なるべくこの2つを一緒に行動させない方がいい。
むしろ、違和感を面白く、ユーモラスに語る。
この知恵が必要なのだ。

前置きが長くなったが、Voicyの勅使川原さんの声を聴いてもらえれば、僕が言わんとしていることは伝わると思う。
勅使川原さんの言っているメッセージは、繰り返しになるが「能力」という概念の否定という意味で、ラディカルな内容だ。
しかし、その語り口は、愛とユーモアに溢れている。
そこに「怒り」はない。
だからこそ、一緒にその問いに向き合いたくなるのだ。

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