be proud of my love : 2022/11/28


著名なアーティストや作曲家の逮捕のニュースを立て続けに目にして、いろいろと思うところがある。


わたしは自分の好きなアーティストが同じような不祥事を起こすことはないと思っているので、この手のニュースを見たときに「自分の好きなアーティストが同じような不祥事を起こしたら……」みたいな心配をすることはない。
一瞬考えたところで、「いや、ないだろ」で議論はおしまいになる。

例えば恋人がいたとして、殺人のニュースを見たときにわざわざ「自分の恋人が同じように人を殺したら……」と心配する人は多分いないと思う。
実際には例え恋人相手だろうと未来に保障なんかないので「絶対に自分の恋人は人殺しなんかしない」なんてことはないんだけど、でもわざわざ心配する人ってそういないと思う。

それと同じで、わたしにとって「好きなアーティストが不祥事を起こすこと」は「完全に可能性を排除できるものでないにしろ、心配するに至る話題ではない」というわけです。



「好きである」とはどういう状態を指す言葉でしょう……というのはわたしの大好きな話題ですが、今日はこの話についてわたしがここ最近考えていることを書きたい。

好きな人、好きな漫画、好きなアーティスト、好きな食べ物、挙げはじめるとキリがないが、「好きになる対象」はたくさんある。

例えば音楽の話をすると、「 #日曜日だし邦ロック好きな人と繋がりたい 」というツイッターのハッシュタグがある。
界隈では「日タグ」とかと呼ばれていて、割と多くの人に存在を認知されている。
傾向として、このハッシュタグには「お気に入りの写真にいくつかのパーソナルデータと好きなバンドを大量に列挙した画像」が添付されていることが多い。
10組20組と並べられた好きなバンドから一致する話題を見つけて仲良くなりたい、という、早い話がマッチングアプリのタグと同じようなものだと思っている。

対して「好きな人」と言うと今度は先に挙げたような「他人と共通する話題」としての「好き」とはまた違う性質を持つものになる、というのは多分誰でもわかると思う。

「好きな食べ物」も同じで、「好きな食べ物が同じ人と仲良くなりたい」ってことはあんまりないと思う。「コーヒーが好きな人同士で抽出について語りたい」みたいなケースはあるにしても、この場合の「コーヒー」は「好きな食べ物」というよりは「好きなアクティビティ(=趣味)」という方が多分近いし。


といったところで、では「好きである」とはどういう状態を指す言葉でしょう、という問いに話題を戻すと、「好き」という言葉がすごく文脈依存性の高くて大きな言葉である、ということに気づく。
要するに、「『好き』とは何か」という問い自体がそもそも意味を為していないのです。



「他人との共通の話題としての『好き』」として音楽について触れたけれど、果たして音楽に関して「好き」を語るときは必ず「好き」がこのような性質を持つのかというとそうではない。

例えば「他人との共通の話題とできる好きなアーティストを10組挙げなさい」と言われたら10組挙げられるけど、「好きなアーティストを10組挙げなさい」と言われたら、「そんなにいないけどな」と思う。
わたしは「好きなアーティスト」というフレーズにおける「好き」の意味合いを「他人との共通の話題とするもの」でないように捉えているから。

このときわたしが想像している「好き」の意味合いは、多くの人が「好きな人」と言われたときに思い浮かべるものと質として似ていると思う。
「この人のことが好きだな」と思ったときに「じゃあ付き合ったあとうまくやっていけるかな」「この人となら長く一緒にいられそうだな」「この人だったら嫌いなところも許せてしまうな」とかを思うように、わたしは好きなアーティストに対して未来の保障を求めている。

気になる人と付き合う前に何度か遊びに行って「こういう考え方をする人なんだ、こういうものが好きなんだ、こういう人なら信じて付き合っていけるな」と思うのと同じように、インタビューを読んでライブに行って、同じように「こういう人なら信じてついていけるな」という判断をする。

「好きなアーティスト」と言うときの「好き」は「好きな人」に対する「好き」と似ている、とだけ言うと所謂「リアコ」「ガチ恋」みたいなものを連想する人が多いかもしれないけど、ここまで真剣に読んでくれた人にはそうでないことが伝わっていると良い。



わたしは、自分の好きなアーティストが同じような不祥事を起こすことはないと思っている。
起こりうる未来から目を背けているつもりはなくて、わたしの「好き」は「信じてついていける」だから。「信じてついていけると判断したアーティスト」に対してそんな不安を持つ理由がないから。という意味で。

だから「自分の好きなアーティストが不祥事を起こしたらどう思うだろう」に答えがあるとしたら、「アーティストを嫌いになる」でも「アーティストに幻滅する」でもなく「自分に幻滅する」になる。


もちろんすべての人がこうあるのが望ましいという話はしていない。
別にわたしだって全ての文脈においての「好き」をここまで重く捉えているわけではなくて、たまたま音楽に関してこういう「好き」を持っていて、たまたまそれを言葉にできる程度には自覚できている、というだけ。


「永遠に愛している」という言葉が嘘くさく聞こえるのは「愛せなくなる未来」から目を背けているからで、「永遠に続いていく」という言葉が嘘くさく聞こえるのは「終わる未来」から目を背けているから。

「終わる未来」を想像できない人が「終わりに抗う」ことはできないと思う。抗うものが見えないのにどうやって抗うっていうんだろう。気合ですか?この世界は根性論だけでは回らないと思うけどな、って思っちゃう。

わたしは「好きなアーティスト」をできるだけ長く好きでいたいし愛していたい。そのためには幻滅したくないし、嫌いになりたくないし、思わぬマイナスな衝撃を受けたくない。

この人は活動を終わらせないでくれるかな?
この人はわたしの「好き」を終わらせないでくれるかな?
この人なら信じていいかな?
っていう不安と向き合うことが最終的に「信じてついていける」理由につながるんだから不思議なものだよね。



好き……って 今のままのあなたじゃなきゃ嫌だってことではないけど
どんなあなたになってもいいってことでもないと思う
だから なんだろう……
あなたは私の好きなあなたでいてくれるだろうっていう
信頼の言葉 かな

やがて君になる (7)







ここから全部余談


「好きなアーティスト」の要素を取り出してみて「ああ、わたしってこういう音楽が好きなんだ」ってやつよくやるけど、こうやって考えるとそれって自分にとっては所謂「好きなタイプは?」って話と一緒で、間違ってないけど正しくもない、程度のものなんだなって思ったり。
多少要件を外していても他が良いから妥協できるみたいなことってあるじゃん、そういうのと同じで、必要条件にも十分条件にもならないんだなっていう。そもそも人の感情をそんな理屈で語るなよって話かもしれないが。


  * * *


「自分の好きなアーティストが不祥事を起こしたら」という心配をしない、と書いたけど、この話題について数日考えながら「ユニゾンスクエアガーデンがアクスタ出したらどうしますか?」という少し前に度々身内で話題に上がっていた仮定を思い出した。
わたしはアイドルに興味がないし、昨今の所謂「推し文化」ともかなり縁遠いタイプで、この問いに関しては不祥事の話と同じく「いや、ないだろ」であり、この仮定自体が「殺人のニュースを見たときに恋人が同じように人を殺す可能性を不安がること」と同じように見えているので、議論の価値を感じない話題だと思っている。

要約すると「わたしが好きなユニゾンスクエアガーデンはグッズでアクスタを出さない」ということです。
つまりアクスタを出すバンドが嫌いなんですか?と言われると、まあ大体YESという答えで差し支えないと思っている。

ところで凛として時雨というバンドがあり、こちらもわたしの「好きなアーティスト」という言葉で表して齟齬のないバンドである。
凛として時雨はツアーグッズでアクスタを出しているが、わたしは凛として時雨のことを「信じてついていけるアーティスト」だと思って「好き」という言葉を当てている。
ついひとつ前の段落で「アクスタを出すバンドが嫌い」と書いたので、これは完全に矛盾しているように見える。

アクスタが嫌いというよりは、アクスタを出されたときの「推し文化」への乗っかりを求められている感じが嫌い。
「推し文化」が嫌いなわけではなく、「わかりやすさ」にあやかる姿勢が嫌い。
「誰でもこうしておけば手軽に『好きアピール』ができる」とか「『好き』とはこういうものなので真似するとインスタントに『ファン』になれる」みたいなものを表現者に求めていない。

それが悪いとかじゃなくて、わたしはそういう人を表現者として好きだと思えない。
つまり「アクスタを出すか出さないか」は論点ではなくて、わたしが嫌っているのは「特定の挙動(この話題では「グッズとしてアクスタを出すこと」)で表現者としての本質が歪むこと」。
凛として時雨がアクスタを出したところでそれは凛として時雨がいつもやってる「音楽性と掛け離れたオモロ謎挙動」の延長線なので別にどうでもいい。またやってらあいつら、でおしまい。


  * * *


凛として時雨のことを「わたしの『好きなアーティスト』という言葉で表して齟齬のないバンド」と表現したけど、こう思えるようになったのは本当につい最近のこと。
わたしが「好きなアーティスト」というときに言う「好き」は「信じてついていける」という意味だと本文中にも書いたけど、凛として時雨というバンド……というよりはその舵取り役としてのギターボーカル・TKのことをわたしは出会って長らく「信じるには値しない」と評価していた。

これには「出会い方が考えうる限り最悪だった」という私情も含まれるが、いろいろな心情を捨てて言ってしまえばそんなことは大した問題ではない。
これは「出会い方」と「信じられるかどうか」は特に関係がないという意味です。よくわかんなかったらいろいろ「最悪な出会い方をしても信じられる」例とか考えといて。

ここで言う「信じる」の目的語は、できるだけ長く好きでいたい、裏切られたくない、好きだったことを後悔したくない、というわたしの願いになる。
だから「信じるに値しない」というのはこれらを満たさない可能性を感じるということであって、わたしはTKに対して「この人を好きになったことを後悔する未来」の匂いを感じていた。

これが払拭されたのは11/4のerror for 0 vol.5大阪公演でのことで、当時の自分がこのように書き残している。

自分の表現に潜り込んで溺れてしまいそうな人を見て放っておくなんておかしいんだけど、あのときわたしがそれを見ても何故か不安にならなかった(苦しくはなりました)のは多分この人が自分で溺れられるほど自分の表現に満足してないから
自分で生んで自分で溺れられるほどの深い海がそこにできたとき、多分この人は満足してしまう 逆説的に言えば、この人がもし自分の表現に押し潰されて耐えられなくなる日が来たら、それはこの人の音楽人生の終わりとして正しいのだと思う

わたしは多分、このTKという人がものすごく危なっかしく見えていて、いつか自分の表現に押し潰されて終わりを迎えると思っていて、そうなったときに自分が「こんな風に終わるぐらいなら好きにならないほうが幸せだった」と悲しい思いをすると思っていたのだと思う。

ていうか今もTKのことはものすごく危なっかしいと思ってるし、いつか自分の表現に押し潰されて終わりを迎える可能性もあると思ってるし、そうなったときに悲しい思いをするとも思っている。

じゃあ何が変わったのかと言うと、
「この人がもし自分の表現に押し潰されて耐えられなくなる日が来たら、それはこの人の音楽人生の終わりとして正しいのだと思う」
この部分。
これに自分の中で納得できたから、仮にそういう終わりをいつ迎えようが「この人を好きになったことを後悔する未来」は来なくなった。
だから今はTKのことも凛として時雨のことも「好きなアーティスト」という括りに入れている。

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