音楽に救われたくない



「音楽に救われる」が悪いとは思っていない。

もしも音楽の力で一歩踏み止まれるならそれは素晴らしいことだし、そもそも「誰かを救いたい」思いで音を鳴らし続ける人もいる。
それが悪いことだなんて言わないし、言えないし、わたしには言う権利もない。


でもわたしは音楽に救われたくない。

その内訳はこうだ。

  1. つらいとき、苦しみや悲しみを歌う音楽に共感されたくない

  2. 「ライブの間だけはつらいことを忘れられる」と思いたくない



   *  *  *



「つらいときに自分以外の人にどうしてほしいか」って人それぞれあると思う。
だからどれが正しいとかどれが間違ってるかとかそんなことを言いたいわけではない。

ではないが、わたしは自分がつらいとき、「つらそうだね、大丈夫?」とか「休んだら?」って言われるのが……言葉を選ばずに言うと、好きではない。


苦しいときには「頑張れ」と言ってくれる人が好きだ。

「もうダメかもしれない」って言ったときに「お前そんなんじゃないだろしっかりしろバカ」ってぶん殴ってくれるような人と仲良くしたい。

鬱に理解のない〇〇bot、みたいに揶揄されるような言葉をかけてもらうのが一番うれしい。


「つらいときは立ち止まってもいいんだよ」「泣いてもいいんだよ」って現状を肯定してくれる優しい言葉はきっといろんな人を救えるんだと思う。

思うけど、わたしは、そうやって肯定されることが、受け入れてもらうことが、穏やかな虚しさに足を取られて動けなくなっていくみたいで怖い。



「そのままの自分でいいんだよ」って多様性の肯定は正しいと思う。
正しいと思うんだけど、それって同じだけ相手の首を絞める言葉でもあると思う。

「他の人と同じにならない道」を選んだときに一体誰がその先の安全を保障してくれるんだろう?

「道なき道を行け」なんて言えば正しそうだけど、その先が崖だったらどうするんだろう?

多様性の肯定って優しさであり正しさであり、一種の無責任でもあるだろ。と思う。



Twitterを「自分という存在を切り貼りしたコンテンツを提供する場」という側面から考えることがよくある。

誰もが表現者たり得る時代である。Twitterで毎日自分の思考の断片を切り売りするのは十分に「自己表現」だと、わたしは思っている。


そのTwitterという場において、「いいね」はひとつの「受容」の形だと思う。

「いいねすること」と「いいね、と思うこと」は必ずしもイコールではないが、大体の場合「いいねすること」と「あなたのことを気に入ってツイートを見ています、と主張すること」は同義な気がしている。

Twitterのハートマークは、気に入ってツイートを見ている人の、その中でもさらに「あなたのツイートを見ています」ということを主張したいときに押すボタンなのかな、と思っている。


ツイートをいいねされると、嬉しい。

「この人はこのツイートに何かを感じたんだ」と思うとその人の人間性が少し垣間見える気がするのも良い。
それは考え方だったり、ユーモアセンスだったり、あるいは優しさだったりするかもしれない。

嬉しいとかいいなあとか思うし、安心する。
こういうツイートは人に認めてもらえるんだ、良かった、と思う。


その「安心」に対して危機感を覚えることがある。

安心する瞬間、と、「今のままやっていていいんだ」という惰性が生まれる瞬間は、同じではなくても紙一重だと思う。もしかしたら同じなのかもしれない。


つらいときにその気持ちに共感して受け入れてもらう、受け入れてもらえるからそれは正しいと安心する、安心して惰性が生まれる。

「認められる」ということと「留まる」ということは表裏一体なような気がしている。

わたしは「つらい気持ち」に留まりたくて人生をやってるわけじゃないし、「誰かが好きでいてくれる自分」に留まりたくて表現をやってるわけじゃない。


この気持ちはディベートにも似ている気がする。

ひとつの物事を多面的に見て、意見を戦わせて、その先に初めて自分の立場や自分の進むべき道が見える。そういう感覚と似ている。




   *  *  *




「ライブの間だけはつらいことを全部忘れて楽しくなれる」って思うことから頑なに逃げ続けている。

逃げ続けて2年になる。

逃走中だったら余裕で100万円もらえる。誰か逃げ続けるわたしに100万円ください。


この世の全てに立ち向かわなきゃいけないと思っているわけではない。

立ち向かったってどうにもならないことは呆れるほど溢れているし、立ち向かう労力に対して得られる戦利品が割に合わないこともある。

例えばわたしは犬が苦手だけど、それを克服するために立ち向かおうとは思わない。克服したところで特に得られるものがないからである。
コストパフォーマンスの問題です。


「ライブの間だけは忘れられる」ということは「ライブの間以外は考え続けている」ということの裏返しである。

それだけ人生に密接に張り付いている「つらいこと」を、「ライブの間だけ忘れ」て紛らわせるって、どうもわたしにはそれが「立ち向かわなくても良いこと」だとは思えない。
コストパフォーマンスの問題です。


「ライブの間だけはつらいことを忘れて楽しくなれる」と思うより「ライブのときに思い切り楽しくいられるために努力する」自分を生きていたい。

わたしの人生の隣人である音楽が、そういう「もう一歩進む理由」とか「何かを掴み取るきっかけ」とかであってほしいと思う。









ここからは関連する余談。



Twitterの「いいね」に限らず、「友達が面白いと言ってくれるから、多分これが正解だ」と思い込めてしまうのってちょっと怖い。

身近な例で言うと、「音楽に対して持った感想が本当に自分の感想なのか」は毎日自分に問い掛けている。

「誰かの目線に影響されて、誰かを喜ばせるための感想」になっていないか?
「周りの趣味の合う人がみんな好きだと言ってるから自分も好きだと思い込む」になっていないか?
好きなものに対して“嫌い”とか“殺してあげたい”とか言う感情ってちゃんと自分が元来持ち合わせていたものなのか?

自分のものの見方や感性は本当に「自分のもの」なのか、誰かと一緒になるために、誰かに好きになってもらうために、誰かを喜ばせるために「“誰か”ナイズ」されたものなんじゃないか?

そういうことを考えて、そうやってまた感情の純度を上げている。思考という名前の濾過装置である。





「苦手を克服する」「つらいことに立ち向かう」ことのコストパフォーマンスについて考えることがよくある。

例えば、わたしは料理ができないけど、できるようになるよりできなくても生きていける方法を選んだ方がコスパが良い。
だから料理ができるようになろうとは思わない。
一人暮らしも4年目になろうという今日、未だに逃げ続けている。


ではわたしにとって「つらいこと」と表現して違いなかったファンタイムホリデーエイト大阪公演と向き合うことはコストパフォーマンスの釣り合いが取れているだろうか、と考えたとき、これはもう間違いなく取れてない。失ったものの方が多い。

確かに感性はその前より強くなった、自己表現の手札も増えたし、そもそもの“表現する”という行為を思い出させてくれたきっかけもそこだった。
もらったものは確かにたくさんある。

それでも失ったものや苦しんだ過程の方がまだ大きい。

行かなきゃ良かったとは今更思わないが、それでも「行かない方が幸せだっただろうな」とは思う。


と言っても今から「行かなかった世界」には行けないし、「あの日がなければわたしは幸せだったのに」と叫ぶことも何の意味も持たない。

わたしにできるのは「ファンタイムホリデーエイト大阪公演に行った選択」を「正解」にするための、「コストパフォーマンス」という言葉で言うところの「パフォーマンス」の値を積んでいくことだけである。


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