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二十歳過ぎてある日突然将棋にハマったおたくの話③

※おそらくいつ読んでも気持ちが悪いので、お好きな時間に読んでください。


将棋を好きになって3年目の秋。仕事を終えたわたしは、四ツ谷駅からねこまど将棋教室への道を爆走していた。朝、すべてが面倒くさかったので、すっぴんに眉毛だけ描いてあとは眼鏡とマスクでごまかしていたのだが、そのために走ると眼鏡が鬼のように曇った。

その日は「平手初心者のためのノーマル三間飛車講座」第1回が開講される日だった。講師は山本博志当四段(当時はデビュー戦前の新四段)だ。
棒銀の次に習った戦法が石田流で、後手番など、石田流に組みづらいときは中飛車を採用していたわたしにとって、ノーマル三間飛車は「隣に住んでいるけれどたまにしか顔を合わせないし、何やってるのかも知らないひと」くらいの存在だった。そもそも、級位者が好きな駒ナンバーワンである飛車のうえに漬物石のようにでんと角が乗ったあのかたち(そのときのわたしにはそう見えた)から、どうやって指すのか見当もつかない。
当時、将棋で勝てない時期が続いていた。負け続ければどうしてもモチベーションは下がる。ひとと盤を挟むことが怖くなり、対局から遠ざかった。短手数の詰将棋は好きなので毎日続けていたが、それ以外の勉強は億劫で本を開いても頭に入らない。指すことはわたしには向いてなかったのかも、と思い始めていた。
そこに飛び込んできたのがこの講座だった。
平手初心者向けって言ってるし、この先生のTwitter面白いし、受けてみようかな。わたしは軽い気持ちで、結局全4回の講座のうち、第1回だけを申し込んだのであった。

これが、すべての始まりだとも知らずに……†

講座は、これがもう、ちょっと衝撃を受けるほどに面白かった。あと、平手初心者向けというのはほんの少し嘘だった。
きっとわたしは細かい変化の話には半分もついていけてなかったし、それを裏付けるように「意味がわからないけどとにかく精一杯聞いたことを書き留めたメモ」が配布プリントの余白をびっしり埋めている。オリジナルキャラクター・トマホークくんのらくがきもあったけど。
こんなに楽しんで、かつ体当たりで講義を受けたのは大学の「現代美術論」ぶりだったと思う。講師が第一線で活躍している美術評論家で、それはそれは面白い講義だったのだ……。

「初級者向けの戦法講座」を受講したのは、これが初めてではない。プロ棋士によるものとそうでないもの、ともに何度か受けたことがあった。そのすべてにおいて、講師はあえて細かい変化を削ぎ落とし、情報量を抑えていた。
初級者にたくさん詰め込もうとすれば、大事な情報まで取りこぼしてしまうからだ。
まずは本筋を押さえ、それをマスターできたら枝葉に向かう。ごく普通のことだ。
けれど山本四段は違った。誤解のないように言っておくが、山本四段は非常に「教えるのがうまい」ひとだ。noteやTwitterを見ればわかるように、かれの言語化能力は群を抜いている。要点が要点だとわかるように説明するのもうまい。

けれど、三間飛車の話をしていると、「迸っちゃう」のである。

わたしはなにかに傾ける情熱や、好きなものへのスタンスについて、安易に愛という言葉を使いたくないと思っている。「◯◯に愛がある・ない」というフレーズが、単に態度が気に食わない相手への文句として使われがちだと感じるからだ。漠然とした概念のあるなしを、そう簡単に第三者がジャッジできるものか。

だけど、これを愛と呼ばずしてなにが愛なのだろうか。
もし世界がこれを愛と呼ばなかったとしても、わたしがそう呼ぼう。

うっかりサンボマスターじみたが、とにかく、わたしはその奔流に流されるようにして、残り3回すべてに申し込みをしたのであった……。かくして、山本四段はわたしの中で「めちゃくちゃ面白いし熱いので、応援したい若手棋士」になったのだ。


ところで。
いまこの文章を読んでいるあなたに、「推し」はいるだろうか。
いるひとは、「推しが推しになった瞬間」のことを覚えているだろうか。

おたく経験から言って、わたしは推したきっかけを言語化できない場合のほうが、往々にしてえらいことになる。言語にできるうちはまだ冷静なのだ。
キリトというボーカリストがいて、わたしはこのひとをかれこれ15年以上好きでいるのだが、このひとのどこが好きかをわたしは説明することができない。いつどの瞬間に好きになったのかもわからない。わたしのキリトに対する感情は、例えるなら奇岩を神の造形物として奉った古代人のような、この世界が生み出し賜うた奇跡的なものに対する原初の崇敬に近い。
ちなみにこの話を同じくキリター(キリトのファンの名称である)である友人に振ったところ、「え、わたしはっきり覚えてるよ。中学◯年生のころに◯◯で観て、ひと目でこれは運命だと思った」という回答が返ってきて、覚えていようがいまいが普通に狂人は狂人だなと思った。

いまのわたしは山本四段のおたくを自称している状態だが、いつどこが決定打だったのか実はまったく思い出せない。
上記の講座で好感度が上がったことには間違いないが、受講中はまだ正気を保っていたような気がする。なにも思い出せなくて怖い。やっぱりあの高熱を出したとき、脳にマイクロ香車チップを埋め込まれたのかもしれない。

断言できるのは、これが奇跡だということである。山本四段が様々な葛藤を乗り越え、プロ棋士になったこと。そんな山本四段を支え、あの人間性を育んだご家族をはじめとする周囲の環境。そして、将棋とは縁遠い人生を送っていたわたしがある日突然将棋に興味を持ち、山本四段の存在を知り、ファンになることができたという幸運。わたしがまだ生きているということ。いまこの瞬間にいたるまで、日本が、人間が、世界が滅びなかったこと。地球が水と生命のある惑星であったこと。宇宙が生まれたこと……。
J-POPを通り越してスピリチュアル系自己啓発書みたいになってきたが、わたしはいたって大真面目に書いている。全おたくにとって(突然のクソデカ主語失礼します)、「推しの存在」と「推しを推せること」はまったくの奇跡である。推しが推しになる瞬間はいわば天啓であり、ほとんど宗教的経験と言ってもいい。


と、ノーマル三間飛車を習った代償として盛大に状態異常(というかバーサク状態)になったわたしは、おたく人生で培った行動力をフルに発揮し始めた。まず、山本四段が講師を務めている湾岸将棋教室に入会。もちろんイベントには片っ端から申し込む。

遠ざかりかけていた対局にも戻った。習いたてのノーマル三間飛車を試したかったからだ。最初は勘所がわからず苦戦した。負け続けていることに変わりはなかったが、「この戦法はまだ習いたてだから負けても仕方がない、むしろ課題がわかってラッキー」くらいの構えでいられたので苦ではなくなった。
信じられないくらい贅沢な話だが、湾岸将棋教室では山本四段に直接「ノマ三を指していてわからないこと」を尋ねることができた。初級者であるわたしのアホな質問にも山本四段は優しく答えてくれた。山本四段、徳が高すぎて来世は輪廻の輪から解脱しかねない。来世で推そうと思っても間に合わないから推すなら今生しかないですよ皆さん。
推しの得意戦法を指すことが生み出すパワーはすごかった。それまで応援していた棋士はほとんど居飛車党だったので、棋譜や中継は正直な話、ほとんど雰囲気で観ていたし、観戦した将棋が自分の指す将棋に活かされることはほとんどなかった。ところがどっこい、いまは「似たかたちをこの間山本四段が指していたぞ」なんてことがわりと起きる。もちろん自分も相手も級位者なので似ても似つかぬ進行になるが、確かこういう手があったぞと指した手がうまくいって勝てたことも一度や二度ではない。
要するに、勉強が勉強ではなくなったのだ。
山本四段には師匠である小倉七段との共著が二冊(「三間飛車新時代」と「三間飛車戦記」)あるが、グッズ感覚で買った。特に前者は棋力的には明らかに背伸びした選書だが、おたくパワーだけで読みきった(なお理解したとは言っていない)。ライブDVDを再生するように棋譜を並べた。指すことが怖くなって消した将棋ウォーズを、もう一度インストールしてやり始めた。1年近く停滞していた棋力が、3ヶ月しないうちに3級上がった。初めて大会で全勝し、賞品として卓上盤をもらってちょっと泣いた。たぶん身長も伸びたけど彼女はできなかった。宝くじは買ってない。

将棋、たーのしーーー!!!!

秋口まで「指すの、向いてないのかな……辞めようかな……」とべそべそしていたやつがこれである。水を得た魚、推しを得たおたく。
だがしかし、この辺りでひとつ、新たな問題が発生する。
それは将棋界が、わたしが渡り歩いてきたどのジャンルよりも圧倒的に「距離が近い」ことに起因していた。わたしがこれまでに推してきた人々には、わたし以外の何千何万というファンがいた。なので、わたしは何千何万分の一としてあればよかった。
20公演あるツアーのうち半分に行っても、板の上の人間には認識されない。もし覚えられているとしたら謎の力でいつも最前列にいるとか、めちゃくちゃマナーが悪いとか、そういうことだ。握手会などのいわゆる接触イベントでは相手が自分のことを覚えていない、知らない前提で話しかければよかった。
将棋界はそうはいかない。数回指導対局に足を運んだだけで、「いつもありがとうございます」なんて声をかけられかねない世界である。
当初は他ジャンルとまるっきり同じようにおたくしていたわたしだったが、すぐに急ブレーキをかけることになった。プロ棋士には所属事務所やマネージャーのように、いざというときの緩衝材になるものが存在しない。負担になったり怖い存在にならないように気をつけないといけない。

そう誓った矢先のことである。さっぽろ東急で開催される将棋まつりに、山本四段が参加するという情報が発表されたのは……。(続)


【次回予告】
お盆でANA JAL片道5万円!いま試される遠征力(ぢから)!
おたく経験値試される大地に挑む──次回、いよいよ最終回。


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