3/29 死生観と母上の影響
今日は初めて自分で書いた詞の内容に繋がるあろうテーマです。親がやべー人でしたといういつものエピソードを交えつつ語ります。重い内容なので元気な方のみが読んでください。
本稿はあくまで自分の死生観を整理するだけであって、自〇を示唆するものでも、それを他者に勧めるというものでもないです。ここだけは決してはき違えないでください。
僕がやっているバンドの1曲目の歌詞のテーマは「内言※によってどんどん追い詰められて本当につらい。今すぐこれを止めてやりたい。でも自〇する勇気がないから消極的に現世に留まっている」というようなどうしようもなく暗いし中二病で恥ずかしいものです。助けて。
※音声を必要としない、自分の中での思考のための言語。
バンドのコンセプト(自分が勝手に作詞の面においてそう思っているだけかもしれないが)が、自分の暗い内面だとか、他人が怖いだとかそういう典型的陰の者思考を表現したいというものなので仕方がありませんね。
自分が死について考えるようになったのはペットの死が原因だとはっきり覚えている。
小学2年生の時、親父の知り合いから子猫を譲り受けた。グレーのキジ白。その子は我が家に来てたった1週間で亡くなってしまった。
当時から猫が大好きでたまらなかったのでそれはもう、ひどく悲しんだ。猫のことを思って何度も泣いた。
それ以来死んだら自分はどうなってしまうんだろうという思考から抜け出せなくなり、死を恐れるようになった。学校で清掃の時間というものがあったが、その時は誰とも話さずに静かに掃除をするというルールがあったのでその時間は基本的に内言と向き合わざるを得なかった。「死とはなんぞや」という疑問に頭を支配され憂鬱になりながら箒で床をはいていた。
我ながら気持ちの悪いガキだ。
ペットでもヒトでも身近な存在の死に立ち会ったことがある人ならば一度は僕と同じ疑問にはまったことがあると思う。
それにしても、特に宗教を持たない日本人はどうやって乗り越えるのだろうか。普通の家族はどうやって子供に死生観を説くのか。
僕は典型的な日本人らしく(????)宗教に対しておよそリテラシと呼べるものをほとんど持っていないので、ふわふわな死生観に生きているし、宗教一般へ誤った理解をしているに違いない。ほとんどをカルトだと思っている。
しかしここで敢えて適当こいてみると大体どの宗教も生前の行いに基づいて平穏な世界に行かされたり、地獄にぶち込まれたりという感じである。死者が復活するために遺体は土葬にするなんていう文化もあるらしい。
さて、小学生だった僕は死に対する恐怖を乗り越えたのかというと、母上のハマっていた謎の宗教もどきの指導者(以後"おっさん")の言葉を信じたのです。
教育熱心(実質洗脳)だった父はゲームなどの娯楽に対し著しく制限を設けてくるような人だったので、子供の僕は父を非常に憎んだ。なので比較的優しい母に物事を頼ることが多かった。
死に対する不安を、「死んだらどうなるのか。あの猫はどこに行ってしまったのか。死が何なのかわからなくて怖い。」という悩みを母に打ち明けてみた。母上は宗教(もどき)信者だったのでそれっぽい答えが返ってくると期待していたのもある。ちなみに僕はガキんちょである当時から母親の信仰を奇妙に思っていた。
母親の信じていた宗教の教えについてはほとんど知らない。ネットにも情報がほとんど残っていない。おっさんが全国各地のホテルで信者を集めて講演会などのイベントを開いていたので、母親は幼かった僕と弟をそれらの会場に旅行という名目で連れて行かれた。ホテルやビーチなどで大勢の大人が瞑想をしている様子や、おっさんが宇宙から伝えられた言葉だとして説教垂れていた様子など視覚的情報は覚えている。肝心の中身は全く覚えていない。子供だったから仕方ない。それよりも講演会に来ていた同年代の子供が貸してくれるゲームをやることに必死だった。だって親父がやらせてくれないんだもの。
死んだらどうなるかという僕の疑問を母親がおっさんに尋ね得られた回答だけは朧げながら記憶に残っている。曰はく、
「死んでも特に何もない。宇宙に還るだけ。我々はもとより宇宙の一部であるのだから恐れることはない。」
つまりは「絶対死は回避できないのだから不安に思っていても仕方がない。諦めろ、受け入れろ」ということなのだろう。
うーん、今思えば当たり障りのない回答ですな。キ〇スト教とか、イム教並みの解像度で死について教えてほしかった。でも、このいい加減な説明が子供の俺には十分な教えだった。僕も僕で当時はまだ素直だったから(?)かもしれない。いっそ未知のものはそのまま受け入れてしまおうという気になった。
今でもあの死んでしまった猫のことを思い出すと非常に悲しい。でもその悲しみが毎日襲い掛かってくることはもうなくなってしまった。
昨年には実家で飼っていたおばあちゃん猫が亡くなってしまった。生き物には寿命があってそれを迎えてしまったまでと受け入れられるようになった。
でもそれは他の存在の死を受け入れられるようになっただけで、果たして自分が死を迎えるときはどうなのであろうか。
大学のとある講義で「エンディングノート」という映画を観た。がんで余命宣告されたお父さんの”終活”の様子を、映画監督を夢見る娘がカメラに収めるというドキュメンタリー。
そのお父さんは自分の死に向かって着々と準備を行いつつ、残りの時間を精一杯家族と過ごすことに使って亡くなった。
逆張り的に、冷たく突き放した見方をしてしまえばこれはある種感動ポルノ的で、人の死を、ましてや親の死を映画にしようなんて、と受け付けない部分もある。それでも形式的にかもしれないがこれでもかと精一杯生きる姿には心を動かされた。
どうしようもなく暗い気持ちになって、希〇念慮が出てくることもあるとほかのブログで書いたこともあるが、元気なときはそんなことは一ミリも思わない。少なくとも僕は本気で自〇しようとは思っていない。
基本的に自分を苦しめているのは周囲の環境というよりは自分の考えだから、それを終わらせる手段として自〇とってみたいと願ってしまうことはある。
そうならないように可能な限り精神的に健康な状態を維持したいし、自分の暗い部分には立ち向かっていきたい。これは1曲目の詞の二つ目のテーマで、サビにそんなようなことを書いた。
最後に自分の今の死生観についてまとめます。最高に気持ち悪いポエムです。大サビ。
認知科学とか心理学を適当に齧った人間風に言えば、死んでしまえばそれっきりだし、死後の世界もクソもないと思っている。宗教的な情緒豊かな世界観なんて微塵もない。
ヒトは内外の情報を脳で再構成して我々の意識へと届けている。ヒトの心はどこにあるかと聞かれたら僕は脳だと答えます。いわゆる脳が先か心が先かという議論ですね。僕は脳から心が生まれているという立場です。
そもそも脳がなければ世界を認識することもできないし、感情も思考もなにも生まれない。なのでインターフェースとしての脳がぶっ壊れてしまえば世界は存在しなくなる。そういった意味では死は自分の認知の終点だし、それ以降もそれ以前も存在しなくなると思っている。後悔もクソもない。
それでも死を恐れて生に執着するのは、死が実際に何たるかを理解できないし、体験して帰ってくることができないから。結局死に対する恐怖は克服出来てはおらず、問題をよそに追いやっただけ。ずるい大人の立ち回りですな。
子供の時は未知のものを受け入れたとしたが、大人になってちょっとだけ思考の道具を手に入れた今また死が怖くてたまらくなった。
でも宗教に頼ろうとは思わない。全部脳が見せているものでそれ以上でもそれ以下でもないと思っている。脳が見せてくれない世界の描写を宗教に頼っても答えにならないので。早く死を認知科学的に説明できるようになってほしい。
生きている限りは楽しいことをたくさん体験してえ
ンァーーー
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