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手がかかり、気を使い、心配が尽きないものに人は金を使う

私は金遣いが荒い。
言い方を変えると、自分の欲望に従順である。
カメラに限らず、趣味に対して、何らかのモノを購入しても1年と待たずに手放すことが多かった。
そんな中、Leica M Typ.240を購入して、先月で1年が経過した。
本当は先月中に公開しても良かった記事だが、「毎月1記事公開しなければならない」ような気がするのが嫌で、間を空けた。
M型が云々、は市井に溢れているが、自分の中でのマイルストーンとして、今感じていることについて記載しておきたい。


ライティングの練習も兼ねて撮影。

現代の(特に)日本のメーカーのカメラは、超優秀である。
正直な表現をすれば、なんでもやってくれる。
シャッターを切る瞬間の判断と、撮ったが最後動くことがない永遠たる構図の策定以外は、なんでもカメラがやってくれる。
(シャッターを切る瞬間でさえ、最近はプリ連写により、人間から技術的成熟の意欲を奪ったように思う。)

一方で、世の中には骨董品の極みたる機材が未だに新開発の製品として売られている(最近のRumor系サイトを見ると、次期作あたりで何かテクノロジーが搭載される可能性を示唆するものもあるが)。

でも、そんな機材にはエンスージアストが存在する。

EVが発売される現代においてMT車をこよなく愛する人がいるように。
わざわざ手がかかることに価値がある。
(二、三例示しようと思ったがいい案が思いつかなかった)

何もしてくれない機材こそ、自分を主役としてくれる。
それがLeica M型なのだと思う。

どこまでも柔らかく、どこまでも硬く、どこまでも鋭く、どこまでも暖かい。
Leicaの絵作りを語れるほど私は何かを成し遂げていないが、うまく撮れたときの、他の人に見せたくなるその説得力は、私を惹きつけて止まない。

ノートの余白

最近Nokton 35mm F1.4を買ったけど、樽型がやっぱり気になるのでUltronかSummicronに買い替えたい。
値段考えなければSummicronだ。
Ultronはややそれでも樽型傾向にある作例を見たことがある。
ということは、心の中ではもう答えは決まっている…。

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