いろいろ諦めた。
今年買った最も大きな買い物は、7月に買ったLEICA M Typ 240。
今日時点(8月半ば)でも、ほぼ断言できる。
我ながらにアマチュアのくせに良く買ったな、と思うし、アマチュアだからできた冒険かもしれない、とも思う。
人生初のレンジファインダーを使い始めて1か月。
初めて眼前に構えたときに感じた感覚は、人生で初めて教習車をバック駐車させたときのような、四肢の動かし方さえ分からなくなるような、思考が止まるようなもどかしさに似ていたと思う。
そんな、まだしっくりこない機材を使ううえで、諦めたことがある。
今回は、そんな1か月を振り返る、ごく内省的な内容です。
諦めたこと
その一、被写体に対し正確に正面に立つこと
レンジファインダーは、構造上、「撮影対象と撮影者の光軸」と「撮影対象とレンズの光軸」が異なり、ファインダーと撮像素子間では視差が生じる。
そのため、例えば、お洒落なカフェを正面から撮ろうと、ファインダーを覗きながら真正面を探しても、撮れた写真では僅かにずれる。レンジファインダーを使う上での宿命みたいなものだと思うし、ライブビューを使えば視差は解消されるが、それではこの時代にM型を使う意味が無い気がする。
そうして、被写体に対し正確に正面に立つことを諦めた。
その二、きっちりとフレームを決めること
レンジファインダーは、構造上、レンズを交換しても撮影者がファインダーを通して見る画角は変わらない。
知識としてこのことを頭で理解していても、新参者は、ファインダーを覗くと迷子になってしまう。ファインダーを覗いたときに、見える景色が広すぎる。なおLEICAはM3以来、装着したレンズで切り取る”範囲の基準”をファインダー内のブライトフレームで示してくれるが、ファインダー越しの視野とフレームの位置関係は視線に依存するし、同じ焦点距離のレンズでもメーカー、時代、個体など条件が変われば数ミリの差異は特別ではなく、枠の大きさは精度を求める対象ではない。
そうして、きっちりとフレームを決めることを諦めた。
その三、現場で作り込むこと
レンジファインダーは、構造上、撮影者は撮影が終わるまでレンズが捉えた景色を確認できない。
ことミラーレス一眼は、シャッターを切る前にレンズを通した映像を見ながらかなり設定を追い込める。ではレンジファインダーはどうか、というと、デジタルであれば試し撮りを繰り返しながら設定を煮詰められる。しかし、それは個人的に無駄にシャッターの寿命を削るような気がするし、そもそもM Typ 240の背面液晶画面は、「構図の確認」程度には充分な品質である。
そうして、現場で作り込むことを諦めた。
意識するようになったこと
その被写体と自分の間にしかない距離感
衆知を集めるWikipediaを、理解の入り口として使う。
内容の真贋を見極める必要があるが、便利だ。
レンジファインダーカメラとは距離計”連動式”カメラであるが、引用した「距離測定に連動して撮影用レンズの焦点を合わせられる」という部分、個人的にはこう解釈している。
「カメラ内の距離測定機能を動かすためにレンズのピントリングを回す」
結局言っていることは同じでは、と思われる方もいらっしゃると思うが、論点として、作用する順序が違うと思っている。ちゃんと躾けられたシステムなら、カメラ内で測定した距離の結果はピントリングに刻まれた撮影距離と一致し、結果として焦点が合う。
レンジファインダーは、ファインダーの中で距離を測定する。
大雑把に言うと、レンジファインダーカメラのファインダーは「窓」でしかなく、そこにピントという概念は無い。ファインダーを覗くと見えているのは、距離測定に使う小さなプリズムはあるが、基本的には家の窓から外を眺めているかのような、景色そのものだ。自分は景色の中にいる。景色は、自分の位置から被写体を追い越し、途切れることなく続く。
この感覚は、誰もが知っている(とは言い切れないが)、ある商品に似ているのではないか、と思った。
その商品とは、『写ルンです』。これを便宜上「カメラ」と呼ぶが、このカメラを使っていたのは干支を何回か巻き戻した学齢期の頃。撮っていたのは、当時の友人たち。
今現在の私は、このカメラを媒介して、友人の顔や仕草、景色、そして当時の自身の感情でさえ、思い出すことが出来る。
『写ルンです』が記録していたのは、その時の私の交友関係であり、友人たちとの相対関係、即ち距離感なのではないか。
一方、レンジファインダーではないカメラでは、撮影したという事実を思い出すことはできても、撮影に纏わるストーリーや記憶には靄がかかっている。
レンジファインダーではないカメラの場合、ファインダーの中でピントを追い込む。
ファインダーを覗くと見えているのは、そのレンズの画角範囲内の、そのF値における被写界深度だ。自分がいるのは、その隔絶された四角い世界の、浅い範囲の内側だ。そこに独りで立っている。これは悪だ、と叫びたいのではない。一点に集中できるこのシステムは、作品を作り込みたい場合はまさにうってつけだ。
現場で設定を弄ったりピントを気にして撮影することで成果物の質は向上するかもしれないが、或いは、その時しか感じられない新鮮な感情や距離感を濁してしまっているのかもしれない。
レンジファインダーで撮影するその時、自分は引き続きその環境の一要素で、その場を構成する全てのものと相対的、心理的な距離を持つ。
今回着想したこの感覚を、一枚一枚の写真という箱ににおさめていきたい。
変わらないこと
学生時代に哲学系の講義を受講したときに、スーザン・ソンタグの『写真論』の存在を知った。当時は手許に置きたいほどの興味も無く、暫くはその存在を忘れていたが、最近たまたま思い出し、読み始めた。
(本当に、まだ14ページまでしか進んでいない!!)
こんな一文に殴られれば、次の行、次のページに何が書かれているか気になるのは当然だと思う。
私の写真撮影の原点は、「残したい」「失いたくない」という意識、要するに記録としての写真だったように思う。そして今は、我が子の成長を感じたときの喜びや、いつまで暮らすか分からないこの町の美しさ等、「感じたこと」を表現するために、写真を撮っている。
まさに景色を所有し、あわよくば他の人に見せるために。
LEICA M Typ 240の購入という出来事を通じ意識が向かうことになった「距離感」も、撮影という行為を通じて自分のものにしていきたいと思う。
余談
『写ルンです』について。
文中で便宜上、「カメラ」と表現しました。釈迦に説法かもしれませんが、『写ルンです』は正式には「レンズ付きフィルム」であり、「フィルムで撮る」と表現するには違和感があったため、上記のように「カメラ」として扱いました。
今回この文章を書くにあたり『写ルンです』について、改めて調べてみました。レンズの焦点距離やF値の設定が絶妙で、光学的な制約がある近接撮影を避ければピントが気にならない気軽さがあり、複数人が集まった場でも、ごく普通に会話をするように撮影することが出来そうです。企画者がどのようなユースケースを検討されていたのかは想像もできませんが、シンプルながら奥深い逸品だと感じました。
流石、悪魔(閣下)が目をつけて宣伝するわけだ。
悪魔的魅力があるがゼウスの妨害により近接撮影はできない。
そう心しておけ!!
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